2018年3月 三月の聖句によせて 「せんかたつくれども、希望(のぞみ)を失わず」(コリント後書4章8節(文語訳)

  • 2018.02.26 Monday
  • 16:56
  「せんかたつくれども、希望(のぞみ)を失わず」
                (コリント後書4章8節(文語訳)

 このパウロの言葉は、わたしの祖父清水安三が終生愛した言葉です。
 意味を知るために、わかりやすい現代の言葉、新共同訳と口語訳で紹介します。
   新共同訳と口語訳
コリントの信徒への手紙二 4章 8節〜9節 (新共同訳)
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
コリントの信徒への手紙二 4章 8節〜9節 (口語訳)
 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
 引用終わり

   この言葉「せんかたつくれども、希望(のぞみ)を失わず」が、全人格の真ん中に刻み込まれているとしたならば、どれほど、力強く生きることができるでしょうか。


 教育の目標に、「生きる力」を、国も掲げるようになりました。


 どんな苦境に陥っても、行き詰まらない。窮しない。

 なすべき事をすべてなして、もう万策つきても、決して希望を棄てない。

 虐げられても、迫害されても、殴られても、投げとばされても、決して滅ぼされない。

 

 そんな、ものすごくしぶとい、生きる力が充満して、尽きることのない生命力を、自分自身の奥深くにもっている。そういう人間に育てたい。


 これは教育者の究極の祈りです。

 

 こども自身の人格の最深部に、こういう確信が核心に存在している人間を育てるには、どうすればよいのか。


 それは、神さま(イエス・キリスト)が、わたしの人格の最深部に、核心に、共にいてくださるという確固たる信念・信仰によって培われると。わたしたちは考えます。


 それから、人格は、その人単独の存在をさしているのではなく、人格は隣人とのかかわりのなかでこそはじめて人格たりえる。

 

「虐げられても見捨てられず、迫害に会っても見捨てられない。」

 

 どんな苦境に陥っても、神と人から見捨てられることはないという確信は、他者・隣人・神との関係への確たる信頼によって築かれています。

 絶対他者からの見守りの確信。これほど強い生命力はほかにありません。

 

 

JUGEMテーマ:建学の精神

2018年2月 聖句によせて

  • 2018.01.30 Tuesday
  • 12:08

 人格の成熟ということが、人にはあります。

 

人は単に学習する動物ではなく、悔い改め、やり直し、工夫し、学び、熟考し、踏みだし、前進してゆきます。

 

 この成熟の過程が人生です。

 

 この成熟には、独力でできることだけでなく、どうしても「隣人との交わり」というものが、触媒のように必要です。

 

 成熟は、発酵です。

 

 人格は、よき酵母によって、適切な「環境との交わり」によって熟成するのです。

 

 幼児にとって、大人は成熟した人格者として登場してこそ、適切な人格的な交わり、環境との交わりと言えるでしょう。

 

 わたしたち大人は、教育者として、また養育者として、幼児の周囲に、適切な触媒となるのです。

 

 だから、わたしたちは、「吸収する心」をもつ幼児には、適切な「言語」をもって対峙するという役割を担っています。

 

 この邪悪な世界には、残念ながら、幼児の人格成長にとって、不適切な「言葉」が氾濫している現実があります。

 

 いやおうなしに、こともだちは、不適切な言葉も適切な言葉と共に吸収してしまいます。

 

 それゆえ、幼児には、吸収した言葉を判断し、言葉を自在に、適切に駆使する聡明な良心が育っていなければなりません。

 

 それゆえ、教育の根幹には、「聡明な良心」を養うという重大な目的との往還が必要なのです。

 

 ところで、「聡明な良心」は、生まれながらに人間に備わっている訳ではありません。

 アヴァロンの野生児の事例によってよく知られているように、人間は、その適切な人生の時期、すなわち幼児期に、適切な言語環境(人との交わり)なしには、高度な人格的な内言(こころのなかの言葉)・外言(外に発する言葉)を修得することができません。

 

 もちろん、人間は、神によって創造された「神の似姿」(イマーゴ・デイ)として、被造者のなかで最も秀でた存在として、神の栄光を輝かせる存在ですから、潜勢力として、成長し、成熟し、完成すべき存在として生まれてきます。

 

 しかし、この潜勢力(ポテンシャル)は、適切な環境との刺激の交流によって発現するのです。

 

 神は、この適切な関係性を、「愛」だということを示されました。

 

 愛は、神の存在から発出して、私たちにたえず注がれています。

 

 神は愛なのです。神は愛の発出源であり、愛そのものとして、わたしたち大人を通して子どもたちに、適切な交わりを与え、「聡明な良心」を人格の中心に形成してゆくのです。

 

 

JUGEMテーマ:建学の精神

2018年1月聖句によせて

  • 2017.12.16 Saturday
  • 01:03

  「見よ、わたしはあなたと共にいる。」 創世記28章15節

 

 極限的思考と日常的思考は、共に大切な思考のあり方です。


 極限的思考とは、常に「死」を身近にしながら、「人間としての尊厳をもって生きるということはどういう生き方であるのか」を、自問自答しながら生きてゆくことです。

 

 そういう究極の極限状況としての「死」を人生の日々のなかで、意識してゆく、そのとき、自ずから思考のあり方は、そうでない生き方とは違ったものとなるでしょう。

 

 だから、「メメント・モリ(羅: memento mori)」(汝、死を忘るることなかれ)は、来世を夢想することなどではなく、死に限界づけられた「生」の意味をこそ、むしろ先鋭的に問うという意義があるのです。

 
 日常的思考は、「死」を意識しつつ生の意義や尊厳を吟味しつつ生きるという根源的な態度も、日常的な些細な感情や、思いと、かけ離れているはずもなく、小さな出来事、微細なことばのやりとりや、受けとめという日々のありふれた、「平凡な生活Ordinary life」において、それは現れてくるべきであり、極限的思考は、日常生活のなかで、日常的思考のなかに自然と溶け合いながら現実化してゆくべきものでしょう。

 

 極限的思考は哲学徒や思想家だけのものではなく、誰でもが、生きているこの日常的思考に反映されてゆくべきものでしょう。


 カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した理由は、「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた。」とされています。

 

 『わたしを離さないで』(わたしをはなさないで、原題:Never Let Me Go)は、クローン技術を手にした人類が、ある人の延命のために、「製造された人」を臓器を摘出するという目的のために、一定の期間、「飼育」するという閉鎖的環境のなかで、自らの運命を受け入れながら、「もの」としての生かされる少年少女の感情世界を描き出した作品です。

 

 ここで描かれた世界はフィクションですが、根源的な意味においては、太古の昔から現実そのものでもありました。人をモノ、IT(ソレ)として扱う〈モノノミカタ〉は奴隷制や、現在も存在する人身売買において顕著と言わねばなりません。


 わたしたちが、日常的に思考する、そこに溶け込んでいる極限的な思考を洞察するとき、わたしたち自身、わたしたちの子どもたちに、どのような生き方を、望んでいるでしょうか。「この生き方は果たして正しいのか」どうか、日々の小さな思考の連続のなかに、 〈考える人〉に、こどもたちを育ててゆきたいと、祈るものです。

 

 

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