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- 2019.03.19 Tuesday
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目には見えない事物。事物は「モノ」とは限りません。
「事」(こと)でもありますから。
「こと」とは、さしあたって「事柄」と考えましょう。
事柄となると、「モノ」のように、具体的・物体的なものではなく、「ストーリー」「ものがたり」のように、「起承転結」をもち、「状況」や、「キャスト」(登場人物)が出てきたりします。
ある出来事が起こるとします。
げんきがよく、好奇心旺盛で、面白がり、楽しい性格で、なんでもやってみたいという意欲もさかんなお友だちです。自分の気持ちをすぐに表情に表す素直なお友だちです。
わたくしたちは「成熟したおとな」として、このようなお友だちが神さまからいただいている天性の賜物(ギフト)が正常に成長してゆくことを、心から願い、祈りつつ見守ることこそが教育だと考えています。
このお友だちは、いろいろな事件(出来事)に遭遇します。事件と出来事は、ドイツ語では同じ言葉を使用することがあります。(Ereignis)
ある日、このお友だちは、仲良しのお友だちに、面白いことをしてみます。
面白いことは、こどもたちの世界では日常的に生起します。また生起しなければなりません。
他者との適切な距離の取り方を学ぶ練習をしないままでは正常な成長をすることは望めないからです。
友だち同士で、楽しい事を共有したり、共感しあったりする機会は、他者とのかかわりをもつなかで、お互いの内面のなかで、どういう「ストーリー」が生起しているかを読み解く経験が必要です。
この内面的なストーリーを読み取れないと、「成熟したおとな」になることができません。
この内面的な事件(出来事)は目には見えません。
小さなお友だちの言葉を、この内面的な事件を洞察することなしに、文字通り「いうがまま」に受け取るとしたら、わたしたちは時にとんでもない過ちを犯すことになります。
こどもたちの内面的な事件の相互的な交流自体もまた目には見えない出来事です。
教育者は、ここで生起しているinvisible events (不可視の出来事)を見つめるべきです。
もちろん保護者は第1の教育者です。
JUGEMテーマ:建学の精神
春ですね。ホザナ幼稚園にも春がやってきました。
幼稚園の園庭には、草や虫がいっぱいもどってきましたす。
お友だちは、地面をじっと見つめて、小さな虫を眺めることが大好きでしょう。
砂場の砂も、いろいろな夢をつくってほしいとばかりに待っています。
厳しい冬のあいだじゅう、食べものがなくて、鳥たちはお庭の花を食べてしまったりしていたけれども、春の温かさを感じてたくさんの草花や虫たちがあちこちから顔をのぞかせ、鳥たちも花を啄んだりせずとも、食べものがいっぱいとれます。
庭の石をどかせると、地面ではいろんな虫がごそごそと動きだしますし、うさぎも走り回りますよ。
春は、いのちが、あたり一面に満ちてくる季節ですね。
ヨハン・フリードリヒ・オーベルリーン(1740~1826) 牧師は、1770年に世界最初の保育園を創設しました。
フリードリヒ・フレーベルが1837年世界初の「幼稚園」(キンダーガルテン)を創設するよりずいぶん以前のことでした。
フレーベルも牧師の子で、養父も牧師でした。
このように保育園も幼稚園も、こどもたちを、育てるということの必要を感じて、人類史のなかで、確固たる方針をもって開始した人々には、共通した動機があったのです。
以下はフレーベルの解説(wiki)からの引用です。
「彼は、子供の本質を神的なものとして捉え、
(中略)園丁が植物の本性に従って、水や肥料をやり、日照や温度を配慮し、また剪定するように、教育者も子供の本質に追随的に、その無傷の展開を保護し、助成するように働きかけなければならないとされ、そこから彼のKindergarten―幼稚園(子供達の庭)という名称が生まれた。」
「子どもの本質を神的なものとして捉える」ということは、「あなたがたは神に愛されている子どもです。」という聖句の核心です。
だから、こどもを自己の延長や部分と捉えるのは誤りであり、
独立した人格として尊重・敬愛することなしには、子育てはエゴにまみれたものに頽落してしまうでしょう。
ホザナ幼稚園は、なによりも子どもを神に愛された存在として、尊重・敬意をもって教育する「こどものたちの庭」なのです。
JUGEMテーマ:建学の精神