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- 2019.03.19 Tuesday
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◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ> 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 ルカ1章28節
この少女は、こどもをその体内に宿したことを知りました。
自分のからだのなかに、自分とは別の人格を有する存在が確かなものとして宿っている事実をどのようにうけとめてよいのか、彼女は知る由もありませんでした。
法的には結婚の相手が決まっていたとはいえ、今日でいえば、まだ実家から出て、家庭を構えて結婚生活をはじめていたわけではない身でしたから、自然の摂理からすれば、赤ちゃんを宿すことはあり得ないということくらいは思春期の彼女にも理解できていたはずです。
彼女は自分の身の上にいったい全体、何が起きているのか、彼女自身、まったく理解できない状態に、ただ困惑としか言いようのない現実に、突然招き入れられたのです。
理解しがたい身体の変化を感じながら、おそらく言いしれぬ恐れと不安が彼女を襲ったことでしょう。この現実は、真実(聖霊による受胎)を知らない人々から見れば、生まれてくるこどもは「婚外子」とか「私生児」と判断されるべき存在として、彼らの目に映ってしまうであろうことは、少女にも容易に予測できたはずです。
外形的な性の掟に厳重に呪縛されている社会において、女性の婚前・婚外交渉(強姦の被害による処女の喪失も含む)を女性本人のみならず「家族全員の名誉を汚す」ものと見なし、この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する風習(「名誉の殺人」と言われる)は、現代でも近代的法制度の影で、厳然と存在しています。(『生きながら火に焼かれて』スアド著、松本百合子訳)
このような、家族からさえ殺される危険な事態を、「受胎」という現実は招くのだ、という過酷な社会環境・状況を文脈として、「受胎」の現実を読み解くとすれば、この少女が迷い込んだ怖れと不安がどれほど深刻なものであったかを、いくらかリアルに想像することができるかもしれません。
実に「受胎」の事実は、彼女の生命の存続がかかっていたという現実理解です。
少女は、「聖霊による受胎」を信じることができない人々にしてみれば、婚外交渉を犯した罪の女としてみなされ、その人々から(家族を含めて)殺される危険に、さらされるのです。ですから、彼女は、誰を頼りにすれば生き延びることができるのか、真剣な選択・決断を迫られることになったことでしょう。この剣が峰に立たされた少女は、どのように決断したのでしょうか。
なんたることでしょうか、夫となるべきヨセフに真実を伝えたのです。
夫ヨセフは信仰深く潔癖な人であり、実直ですが、深い愛情をもって彼女を見守っていたものと思われます。彼としても、まさか神さまが創造された大自然の摂理では説明できない受胎の現実を、にわかには信じがたかったのです。
それで密かに離縁しようとしたのでしょう。自分以外の本当の父親がいるだろうと彼は考えたのです。その男と結婚することで危機を回避できると考えたのでしょう。
しかし、少女は彼に、「真実」を伝えました。マリアの受胎は、人間の男性によるものではないという事実、「聖霊による受胎」であるという事実を伝えたのです。
そしてこの真実は、神ご自身によって、ヨセフにも啓示されました。マリアの胎に宿る子は、神の子であり、人と人との自然の摂理によって受胎したのではなく、「聖霊によって、受胎した」のであるという事実を、ヨセフは神ご自身によって、示し啓かれ、知ることとなりました。
彼は、「神の独り子なる子」が、「神の独り子なる神」でありたもう事実を知らされたのでした。彼は、マリアと家庭を築き、「神の子」を、この世界のなかで育てるという生涯の使命を直感したはずです。
ここに「聖家族」が誕生しました。
わたしたち凡人の家庭の家庭も、この「聖家族」の家族として連なっています。
わたしたちが愛し、育て、見守る子どもたちは、神である主イエスとは、人にすぎないので異なりますが、主イエスが人になりたもうたがゆえに、人として生まれたすべての子どもたちは、主イエスと同様に、神の意志のもとに生まれてきた存在です。
父も母も、こどもたちを、わが子として愛します。しかし同時に、子どもたちは、神の恵みのもとに、神の愛の決断のもとにこの世に生まれてきた存在として「授かった子どもたち」です。
「神からの授かった存在・子」として、わたしたちはわが子を愛すべです。
わたしたちの家庭そのものは「聖家族」の「写し」となるのです。
わが子であって、それだけでなく、神さまから授かった、尊い神の子なのです。
JUGEMテーマ:建学の精神
◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ> 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 ルカ1章28節
この少女は、こどもをその体内に宿したことを知りました。
自分のからだのなかに、自分とは別の人格を有する存在が確かなものとして宿っている事実をどのようにうけとめてよいのか、彼女は知る由もありませんでした。
法的には結婚の相手が決まっていたとはいえ、今日でいえば、まだ実家から出て、家庭を構えて結婚生活をはじめていたわけではない身でしたから、自然の摂理からすれば、赤ちゃんを宿すことはあり得ないということくらいは思春期の彼女にも理解できていたはずです。
彼女は自分の身の上にいったい全体、何が起きているのか、彼女自身、まったく理解できない状態に、ただ困惑としか言いようのない現実に、突然招き入れられたのです。
理解しがたい身体の変化を感じながら、おそらく言いしれぬ恐れと不安が彼女を襲ったことでしょう。この現実は、真実(聖霊による受胎)を知らない人々から見れば、生まれてくるこどもは「婚外子」とか「私生児」と判断されるべき存在として、彼らの目に映ってしまうであろうことは、少女にも容易に予測できたはずです。
外形的な性の掟に厳重に呪縛されている社会において、女性の婚前・婚外交渉(強姦の被害による処女の喪失も含む)を女性本人のみならず「家族全員の名誉を汚す」ものと見なし、この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する風習(「名誉の殺人」と言われる)は、現代でも近代的法制度の影で、厳然と存在しています。(『生きながら火に焼かれて』スアド著、松本百合子訳)
このような、家族からさえ殺される危険な事態を、「受胎」という現実は招くのだ、という過酷な社会環境・状況を文脈として、「受胎」の現実を読み解くとすれば、この少女が迷い込んだ怖れと不安がどれほど深刻なものであったかを、いくらかリアルに想像することができるかもしれません。
実に「受胎」の事実は、彼女の生命の存続がかかっていたという現実理解です。
少女は、「聖霊による受胎」を信じることができない人々にしてみれば、婚外交渉を犯した罪の女としてみなされ、その人々から(家族を含めて)殺される危険に、さらされるのです。ですから、彼女は、誰を頼りにすれば生き延びることができるのか、真剣な選択・決断を迫られることになったことでしょう。この剣が峰に立たされた少女は、どのように決断したのでしょうか。 なんたることでしょうか、夫となるべきヨセフに真実を伝えたのです。
夫ヨセフは信仰深く潔癖な人であり、実直ですが、深い愛情をもって彼女を見守っていたものと思われます。彼としても、まさか神さまが創造された大自然の摂理では説明できない受胎の現実を、にわかには信じがたかったのです。
それで密かに離縁しようとしたのでしょう。自分以外の本当の父親がいるだろうと彼は考えたのです。その男と結婚することで危機を回避できると考えたのでしょう。
しかし、少女は彼に、「真実」を伝えました。
マリアの受胎は、人間の男性によるものではないという事実、「聖霊による受胎」であるという事実を伝えたのです。 そしてこの真実は、神ご自身によって、ヨセフにも啓示されました。マリアの胎に宿る子は、神の子であり、人と人との自然の摂理によって受胎したのではなく、「聖霊によって、受胎した」のであるという事実を、ヨセフは神ご自身によって、示し啓かれ、知ることとなりました。
彼は、「神の独り子なる子」が、「神の独り子なる神」でありたもう事実を知らされたのでした。彼は、マリアと家庭を築き、「神の子」を、この世界のなかで育てるという生涯の使命を直感したはずです。
ここに「聖家族」が誕生しました。
わたしたち凡人の家庭の家庭も、この「聖家族」の家族として連なっています。
わたしたちが愛し、育て、見守る子どもたちは、神である主イエスとは、人にすぎないので異なりますが、主イエスが人になりたもうたがゆえに、人として生まれたすべての子どもたちは、主イエスと同様に、神の意志のもとに生まれてきた存在です。
父も母も、こどもたちを、わが子として愛します。しかし同時に、子どもたちは、神の恵みのもとに、神の愛の決断のもとにこの世に生まれてきた存在として「授かった子どもたち」です。
「神からの授かった存在・子」として、わたしたちはわが子を愛すべきです。 わたしたちの家庭そのものは「聖家族」の「写し」となるのです。
わが子であって、それだけでなく、神さまから授かった、尊い神の子なのです。
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