スポンサーサイト
- 2019.03.19 Tuesday
一定期間更新がないため広告を表示しています
- -
- -
- -
- -
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」 ローマの信徒への手紙12章15節
非認知能力(Non cognitive skills)の涵養こそが重要だということが、広く認識されはじめています。
ホザナ幼稚園を選んでくださった保護者のみなさまは、おそらく、モンテッソーリ教育や統合教育が非認知能力の発達にとって、優れているということを直感的にご存知の方が多いでしょう。
幼い子どもに教育が必要だという思想は、わが国にはありませんでした。
寺子屋とか藩校とかあるにはありましたが、それは、篤志家によるもので、圧倒的多数のこどもたちは、教育を受けず、それぞれの家業をみようみまねに習熟する訓練が、労働参加によってなされていました。
「思想としての教育」を受けるようになったのは、宣教師が、幼児教育をわが国にもたらして以降と言われています。
とはいえ、西欧においても、幼児教育がはじまったのは、それほど古いことではありません。
祖父が桜美林学園を創立した際、ジャン・フレデリック・オベリンという一人の牧師の名前を校名としました。
それは彼が幼児教育の先駆者だったからです。
「オベリンの教育の独自性を挙げれるとすれば、その第一は間違いなく幼児教育施設『ポワル・ア・トリコテ』poêle à tricoter (「暖炉の居間」正式名称「編み物学校」)の創設であろう。同機関の設立は1770 年、世界初といわれるフレーベル Friedrich Wilhelmaugust Fröbel (1782-1858)の幼稚園設立(1840 年)に 70年先行する。教師は全員女性を雇用し、その授業科目はフランス語、地理、自然観察(採取・スケッチ)、礼儀作法と衛生観念および編み物である。その他実物を用いた教材、ゲームを応用した授業、レクリエーション導入、そして 3、4 歳から 6、7 歳までの就学前児童の学校教育自体が、当時においては瞠目すべき創案・事業であった。」『教育史における J.F.Oberlin(オベリン)―フランス革命以前の教育体制の視点から―』梅津淳著(桜美林大学准教授)
簡素な科目設定ですが、幼児教育の基本が既に完璧に盛り込まれていますね。
自然観察や編み物やゲーム、レクリエーション、礼儀作法、衛生観念などは、モンテッソーリ教育に科学的に革新されて継承されています。
これらは非認知能力を涵養するものです。
つまり、幼児教育の基礎・根幹にあるものは、非認知教育だったのです。
モンテッソーリ教育では、教え込むのではなく、こども自身が学ぶ力を神から賜物として与えられているという確信に基づいています。この基礎こそが、キリスト教教育です。
日本の公教育は、この伝統を、「神さまから愛されている。神さまが見守っていてくださる」という絶対者の概念を、言葉を代えた形で、そっくりそのまま導入して成り立っています。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
人と人との倫理の基本は、この聖書の言葉に勧められています。
共感能力は、人間関係の基本的な能力です。信仰こそが道徳教育の基礎なのです。
JUGEMテーマ:建学の精神
「あなたがたは地の塩である。」 マタイによる福音書5章13節 主イエスは、
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と言われています。
通常は、土壌に塩分が高濃度で含まれているならば、そこに繁茂する植物は限られてしまい、決して豊かな土壌とは言えませんが、主イエスは、むしろ「塩」を土壌を貧しくする成分とはせずに、必要不可欠な成分だと言っているように思われます。
「塩に塩気がなくなる」ということがあるでしょうか。自然現象ではあり得ませんよね。塩化ナトリウムは、どこまでも塩化ナトリウムですから、濃度が薄まれば、味が薄まることはあっても、別のものになることはありません。
ですから、これはメタファー(隠喩:たとえの形式をはっきり示さずにたとえる方法)でしょう。
「塩気を失った塩」は、「塩」らしい働きをしなくなる「塩」の比喩になっています。
この譬えは、意味深長です。土壌にとっては塩が塩らしく働けば、植物は育ちにくいやせた、貧しい土壌になりますから、人間の暮らし向きには役立ちません。
土壌には、塩の働きはない方が人間の利便には有益なのです。
それなのに、主イエスは、なぜ土壌にとって、塩が必要不可欠な成分だと言っているのでしょうか。
極端なまでに、塩気のない塩は投げ捨てられ、踏みつけられるとまで言われます。
塩気が、それほど大切なのだと強調されるのです。なぜでしょうか。
植物を育て、養い、大きく成長される土壌には、さまざまな成分が含まれています。
その成分が単一であることよりも、多様であることが土壌にとっては豊かだと言えましょう。
塩はそのなかの1つですが、人間と土壌を結ぶ成分の1つでもあります。
人は神さまによって「土」(アダマー)から創造されましたが、やがて再び「土」に帰ってゆきます。
「塵から産まれ、塵に帰る」のです。人の身体は、塩なくしてはあり得ません。
人が生き、そして死んでゆく悠久の営みが土壌を生成してきているのです。塩は人と地球を結ぶ成分なのです。
この塩が、塩としての働きを果たしていることは、人間の利便性という一部の局面だけでは判断できない、無限の意味がある。
主イエスは、わたしたちの目先の目的に合うか合わないかだけで、ものを判断してはならないということを、さとしておられるのかもしれません。
はやり土壌には、どうしても塩が必要な理由があるのです。それが何かはわたしたちに、にわかにはわからないところでも。
JUGEMテーマ:建学の精神