「キリスト教の祈りは、祈ること自体すでに愛することであり、キリスト教における活動は神の愛によって動かされたものである」(エヴェリー『現代人の祈り』)
奥村一郎神父(カトリック司祭)は、このエヴェリーの祈りについての思想を、「まばゆいまでに美しい祈りの理想論」と呼んだけれども、決して手放しに賛辞を送った訳ではありませんでした。続けて「しかし、キリスト教の本質は愛であるという観念的規定によって、祈りと活動の問題を簡単に整理してしまうことほど、大きなあやまりはない」と、むしろ手厳しく批判していたのです。
愛することは、祈りを伴う事柄であることは間違いありません。祈ることなしには、自分は愛しているつもりでも、内実は自分自身の我を通しているだけのことだってありえます。
こどもに、神さまが賦与してくださった賜物(タラント)を最大限に伸ばしてあげたい!と願うのは親心ですが、この親心が自我の我欲から自由にされていない「わがまま」な願望に頽落していれば、この親心がこどもを虐待することになりかねません。
こどもを勉強嫌いにしたければ、この我欲から発した親心を行動に移せばよいのです。「勉強しなさい」と言い続ければ、ほぼ間違いなくこどもは「勉強嫌い」になるでしょう。つまり、親の心持ち次第で、こどもの才能は成熟しますが、逆に成長が阻害されもするでしょう。
情欲に起源する情愛は、おのれの我欲の満足を求め、おのれの思いをとげようとします。神への愛、すなわち、神への祈りによって聖化された親心は、こどもを自由にします。
自由にされた子どもは、自由に神さまによって賦与された賜物・贈り物を、原石からダイアモンドへと磨き上げてゆくでしょう。
生まれてまだ2年しかたっていない幼児も、自由にされると、驚異的な集中現象を発現します。
「もっと、他のお仕事をしてほしいな」とか、「ああ、そうじゃない」とか、親心が動きますが、その心が親の満足を得たいという我執であるときには、こどもの集中現象が阻まれることになりかねません。
自分の心のなかにこうあってほしいのにとか、こうあるべきだなどという理想像をもって、こどもにそれを押しつけようとすると(大人でも同じです)、自由な関係性は破壊されてしまうのです。