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    12月の聖句によせて 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」 ルカによる福音書2章14節

    • 2015.11.30 Monday
    • 13:02
    ◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ>
    「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」
                                        ルカによる福音書2章14節
       この言葉は、願い、求めていることばです。ひとの言葉ではなく、神の言葉です。
    人が、自分の願いを求めているのではなく、神さまは願い求めておられるのです。
    このことは、とても重要なことです。人の願いは利他的であるよりも利己的で、狭量で、自分勝手なことが多いのではないでしょうか。「苦しい時の神頼み」とか、自分の都合次第で神さまを呼び出したり、引っ込めたりして、神さまを自分の願いを聞いてくれる「しもべ」のように扱ったりしているのが罪深いわたしたちの姿ではないでしょうか。そういうご都合主義の「神頼み」の役者のように扱うところに、わたしたちの「罪」があります。神さまを神さまとして信じようとしていないからです。神さまは全宇宙の創造者であられるお方なのに、わたしたちは、自分の都合で、都合のよい「神」(偶像)を創造しているのです。神さまは、そのような「木偶(でく)」ではありません。
    この「神の言葉」は、創造者なる神がわたしたちにむけて語ってくださった祝福です。人の邪悪さに満ちた「願望」の言葉ではなく、神さまが創造者として、創られた世界に向けて、神さまと世界の関係が、そして世界が、どのようであってほしいかを明確に、「神には栄光」「地には平和」であると示してくださった恵みの言葉です。
    神さまは、どこまでも、真実に神さまでありたもう。どこまでも真実に神さまであられる方に、すべての栄光が帰せられるということが、地の(つまり被造者の)地である存在の本来的な、唯一のあり方なのだということを、ご自身が宣言したのです。それゆえ、人の誉れも、自然の美も、人や自然にではなく、すべては創造者なる神さまにのみ栄光が帰せられるべき存在だというのです。
    地は、どこまでも、地であり、神になりかわる存在ではなく、神の創造物として、「神の偉大な力」を反映した「もの」である。それゆえに、そこには神の意志、神の力、神の「願い求め」が反射、反映しているのであるから、そのようなものとして、地を、本来あるべき姿の地として、あらしめるようにと神は、神ご自身の「願い求め」を宣言されたのです。
    この宣言を、実現する神の似姿として、地上に「受肉」したもうた「独り子なる神」こそが、主イエス・キリストです。
    主イエスが、地上の人の魂に受肉し、世界が神の国(神の支配)となること、これが平和の実現です。ひとりひとりに主イエスが来られるように。
    JUGEMテーマ:建学の精神

    11月の聖句によせて 「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天を露をくだす。」 ゼカリヤ書8章12a節

    • 2015.11.05 Thursday
    • 00:59
    「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天を露をくだす。」                             ゼカリヤ書8章12a節  
     昨日はリレー、今日はよさこいソーラン節と、秋の園庭ではこどもたち自らが、「先生やりたい!」と言い出して、協働の遊びが始まる姿を毎日のように観ることができます。

     ホザナ幼稚園では運動会の前も後も、リレーや玉入れ、ソーラン節は子どもたちの自由遊びのなかで「ブーム」になります。おしきせの練習ではなく、子どもたちの「やりたい」という気持ちが 尊重されます。
     運動会でもリレーをしました。年少から年長までまじったクラスですから、走る速さはまちまちです。それでも自分の順番がまわってくると、その子なりに精一杯に、しかも楽しく走ります。足の速い子も遅い子も、自分自身が力いっぱい走ること、その事自体に喜びを感じているのです。

     「足の遅い子のせいで負けた」とか「あのクラスはいいな、足が速い子がいるから」というような「比較」をする言葉は聞こえてきません。なかには勝負に負けて悔しくて泣く子もいますが、それでも足の遅い子を責めるようなことはありません。それぞれが力を出し切った満足感があるし、ほかのお友だちも精一杯に力を出し切ったということを知っているからです。だから、ホザナの運動会には、誰もが勝者です。走りきった事に誇りをもちます。

     聖書の世界では、しばしば人の成長を植物のそれにたとえます。

     土に種を蒔くことは、人にとって必要な「神の言」を伝えることと比喩されます。人として大切な信念、善悪の規範などは、「ことば」として語られ、吸収され、その人の中で、生きてゆくうえでの核心を形成してゆきます。やがて木は伸びて枝をはり、葉を茂らせ、実が結びます。成熟して豊かな実りをもたらす木は、生涯を通じて成長し続ける人の姿に似ているというのです。

      しかし、十分に熟すまでは実は青く、収穫するには時期尚早です。
     「時」が必要なのです。成長の「あいだ」のどの瞬間も、成熟に至るまでの「過程」です。

     その「過程」「あいだ」に実を摘んでしまっていけない。世話をしながら見守る必要があります。

     教え込もうとする「指導」は、どうしても教え込もうとする側のコンプレックスが反映してしまいます。

     そして、その思いは「こんなに言っているのになぜわからないのか」という攻撃性を誘発します。またあるいは「そんなに言うことを聞けないなら勝手にしろ」というネグレクトにもつながる。

     ぶどうの木にいくらそんな思いをぶつけても意味はありません。

      「あいだ」のどの瞬間を 切り取っても、実はそこに最良の「生の瞬間」があるはずです。

      それを教える側の願望(欲望)やコンプレックスによって短絡して、「できる子」「できない子」と速断してしまうと、「生の歓喜」が見えなくなります。

      それぞれの子どもは、それぞれに「固有の育ちのあいだ」を生きています。横並びで「比較」することは愚の骨頂。どの子も神さまから賜った固有の人生の「最高の瞬間」をいま生きている最中なのですから。
     
    JUGEMテーマ:建学の精神

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