◆聖句によせて 「主はわたしたちを創られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」
詩編100編3節
英語で「生き物」のことを、「クリーチャー」と言いますが、それは「創られたもの」を意味します。
言葉が信仰と深いところで結びついているのです。
仏教では、創造者を考えずに、「サットヴァ・カルマン」によって、あらゆる存在が生まれると考えます。(『存在の分析』櫻部建・上山春平)
「サットヴァ」とは「有(う)情(じよう)」とか「衆(しゆ)生(じよう)」とか訳されている語で、この世に生命をもって存在するものを意味します。「カルマン」は「業(ごう)」と訳され、行為・動作を意味します。
ですので、「サットヴァ・カルマン」とは生命あるものの行為、生命体の生活行動ということになります。
生命あるものの行為・動作によって自然界が生み出されるというのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。
この自然界とは別の場所に「他の、多くの」自然界が存在していて、その他の自然界に生存している「サットヴァ」の「カルマン」によってここの自然界が成立していると考えるのだそうです。つまり、創造者はいない。存在が存在するために、無限に、他の自然界があると想定し、その自然界の行為・動作によっていまここの自然界が成立するという訳です。
わたしには、この無限に続く存在を存在あらしめる他の存在という想定には、始まりという出来事がありませんから、無理ではないかと思うのです。
存在をあらしめる他の存在もまた別の存在を次々に想定してゆくのですが、その想定は無限に、「他の・別の」存在があるはずだという具合に結局、どこまでも果てしなく続く無限の彼方を想定しているだけのような気がします。そこには、存在の目的とか、存在の意味とか、存在の喜びとか、そういうことが何も考えられない無機質な考えのように思えてなりません。
しかるに聖書には、あらゆる存在が、創造者なるお方の明確な創造行為があったとという存在観が示されています。
存在者は全て、創造者なる神の意志、行為によって、無から有へと、非存在から存在へと呼び出されているというのです。
存在者は、全て神さまが良しとされた。ここには明確な人格的な呼応関係があります。
存在者は、あきらかに良きもの(存在)なのです。
存在するものは、存在するだけで神の愛の対象であり、喜びの対象であり、価値あるものだという存在観が高らかに謳われているのです。
そこに在るだけで価値があるというのです。