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    2015年  ◆6月聖句によせて 「実にキリストはわたしたちの平和であります。」エフェソの信徒への手紙2章14a節

    • 2015.06.12 Friday
    • 00:08
    JUGEMテーマ:建学の精神
     わたしたちは、遺伝子の乗り物だと言われています。

    遺伝子の構造解明は、あのワトソンとクリックの偉大な功績ですが、いまや、ヒトゲノム情報も解読されています。つまりわたしたちの設計図まで人類は解読し、すでに遺伝子組み換え技術によって、自然界には存在しなかった生き物が人の手によって生産され、それらを私たちは食べています。そのことが今後、どのような結果を生み出してゆくのかは、誰にもわかりません。

     人が、科学技術によって、神さまが創造された被造存在以外に、新たな「創造者」として、新たな「被造存在」を造りだす果てに、どのような世界がまちうけているのでしょう。

     人は決して神さまにはなれません。真実の創造者にはなれません。

     わたしたちに許されているのは、神さまが創造された世界を、神さまの御意志にしたがって保持し、管理し、美しいままのものとして守り続けるという管理責任のみです。

     
     サイエンス・フィクションの世界では、この人間が、その管理責任を踏み越えて、傲慢にもなり、「神のようになろうと」したために、破滅的な世界が現れてしまうというシナリオがさかんに登場します。しかも、それは決して非現実的な危機などではなくて、科学技術革新によって、いずれは現実となるかも知れないのです。
     
     既に放射能汚染は、原発事故によって現実のものとなってしまいました。

     『ゴジラ』は、被爆によって突然変異した古代生物が出現するという核汚染を警告する予言的な使信をもっていました。

     『ジュラシック・パーク』では人は琥珀の中に封印されていた蚊の血液から恐竜を復元してしまいます。 

     
     中東では、狂信者たちがものすごい勢いで世界中から集まり、恐怖支配の版図を拡大しています。

     毎日、罪なき人々がわけもなく殺害されています。わが国も戦争をする国に今にもなろうとしています。

     たしかに、科学的知見・情報量は昔にくらべれば何千倍も増えました。

     しかし、日々ますます、悲劇が繰り返されています。人には「平和」を作りだすことはできないのです。

     しかるにわたしたちが、「平和」そのものであられる神、主イエスに希望を託すことによって、わたしたちは「平和」を造りだすことができます。

     憎み争いと訣別する力をいただきながら、わたし自身にはできなくても、キリストが「平和」そのものとなってくださるというのです。

    2015年 5月の聖句 「初めに、神は天と地とを創造された。」 創世記1章1節

    • 2015.06.12 Friday
    • 00:03
      1966年というと、わたしは小学校4年生だったということになります。
     映画『天地創造』(原題は、ずばり『ザ・バイブル』)はロードショーを観に行きました。
     入場記念に「ヨハネによる福音書」の分冊をいただき、とても嬉しく、最初のページを何度も読み直していました。

     この映画、子どもごころに深い印象を残した作品です。
     
     アブラハムの天幕を訪れる三人のみつかいが、みな同じ顔で、言葉を語るときにだけ、顔が浮かび上がってくるシーンや、バベルの塔などの物語などはこころの原風景を形作っているといっても決して言い過ぎではありません。

     いつしか、わたしは、聖書を読むことが大好きな少年になっていました。

     お祈りの本(『朝ごとに、夕ごとに』(C・H・スポルジョン))を買ってもらい毎朝、毎晩読んでいました。こどもにはなかなか難しいものでしたが、くりかえし読みました。

     
    「はじめに、神は天と地を創造された。」創世記1:1
     
    「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ヨハネ1:1〜3
     
     ふたつの、この聖書の言葉は、いずれも、宇宙の創造主による「創造のみことば」です。

     この言葉をなんどもなんども読み、そらんじてもなお、くりかえしあじわうという読み方を、わたしは少年時代に経験できたことは、わたし自身の人格を確実に形成してきたとしみじみと思います。

     
     どんなに小さい存在も、神がつくりたもうた存在であり、何一つ神さまが見守っていないものはないのだなあと感じる心が育まれました。またどんなに大きな存在でも、それもまた神さまがつくりたもうた存在であり、神さまがおさめていらっしゃるのだなあと確信しています。ありとあらゆる存在するものは、すべて神さまが創造したもうたものであり、美しい存在なのだという思いが養われました。
     
     ホザナ幼稚園の幼いお友だちに、すべての存在を創造されたまことの神さまをいつもいつも身近に感じながら、この愛の神の懐にあって「基本的信頼」(エリクソン)感に充ち満ちた子どもとなってほしいと、日々祈っております。

     
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