◆聖句によせて 「見よ、兄弟がともにすわっている。なんという恵み、なんという喜び。」 詩編133編1節
孤独感、絶望感、疎外感、世界で自分がたったひとりで苦しんでいる。自分がこの世にいるということは無意味なような気がする。・・・こんな気持ちになることがあります。いろいろな事情や原因で、どん底の境地に落ち込んでしまう。
いや、そんな気持ちになったことは一度もない。そんな気持ちでいるから、ますます何事もうまくいかないんだ。もっと覇気をもたないといかんよ。キミイ。・・・・そんな元気のいい励ましなのか揶揄なのかお叱りがきこえてきそうですが。
個々の事情はともかく、誰でも落ち込むことはあるのではないでしょうか。わたしも人生の危機ともいうような経験は、思い返すとあった気がします。でも、よく考えると、そんな一番弱くなった時の自分は、一番成長したときでもあったなあと感じるのです。
「見よ、兄弟がともにすわっている。なんという恵み、なんという喜び。」
この詩編の言葉をそのまま歌詞にした讃美歌があります。塩田泉神父さまがつくった讃美歌です。ある日の礼拝で、この讃美歌を歌っていたときのことです。わたしは、涙がとめどなくあふれてくる体験をしました。
見よ、兄弟がともにすわっている。なんという恵み、なんという喜び。
もう理屈を超えた感謝の念が溢れてくるのです。兄弟がともにすわっている。
その奇跡的な有り難さが、ありがたくてありがたくてしかたがないのです。
自分にも、「兄弟」と呼べる存在がいる。
どこの誰ということでもありませんが、神様にあって、この、個人的な交友関係で言えば、知己でもないのだけれども、主イエス・キリストのもとで、私たちと呼び合う兄弟姉妹がいるのだ。わたしはこの兄弟姉妹を、「知りあい」なので愛するのではなく、見ず知らずであっても、主イエス・キリストにあって、わかちがたい絆で結ばれているがゆえに愛さないではいられないのだ。
わたしにも愛する人々がいて、わたしもこの愛の絆のなかで愛されている。
礼拝堂で、讃美歌を歌うという行為のなかで起こる奇跡的事件でした。
絶望感・疎外感にうち沈んでいるときにこそ、弱さに負けて背中を丸めている時にこそ、わたしは、この奇跡的事件に遭遇する恵みを受けました。そして大きく背を伸ばすことができたのです。
クリスマスの奇跡が、今年もたくさんの奇跡を起こすことでしょう。