◆6月聖句によせて
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」
使徒言行録1章8節
教会というところは、実は建物ではないのです。行田教会にも礼拝堂はありますが、これは礼拝を捧げる建物でして、教会そのものではありません。教会とは、共同体のことを指しています。また教会は、人の思いで形成された共同体ではありません。神さまの霊(聖霊)が、降って人々の魂にとどまり、あるいは人々のあいだにとどまり、人々を、それまでの人々とは異なった世界の人々にしてくださったというのです。
この出来事を聖霊降臨(ペンテコステ)と言います。ユダヤ教の五旬祭の日に、この出来事が起こったので、ギリシャ語の50日を意味する言葉、ペンテコステと言われるようになりました。
人の思いで教会共同体がはじまったのではないので、もし「宗教」というものを人の創ったものだと考えれば、教会共同体は、「宗教」と呼ぶのは間違いということになります。神さまの霊すなわち聖霊が人々に降ることによって教会共同体がこの世に誕生したからです。
だから、教会は人間の願い事をかなえてくれる「神さま」を拝む所ではありません。神さまを礼拝するのは、神さまが、人々に礼拝することを望まれているから、人々は礼拝を捧げに礼拝堂に集います。「人は霊と真実をもって神を礼拝すべきである」と聖書に書かれているからこそ、人は礼拝を捧げるのです。
人は元来、創造主なる神さまによって創造されました。しかし、罪によって、神さまから離れてしまい、神さまと隣人を愛せなくなってしまいました。けれども神さまは、罪深く塵にも等しい人間を、我が子として愛し抜こうと、神さまは人々を探し求めておられるのです。
神さまは、独り子なる神イエス・キリストを、人々の罪をなきものとするために、身代わりとして十字架の死へと引き渡されました。イエスさまは、人々が受けたとしたら滅びる他はない罰を一身に引き受けられました。そして黄泉へと降られたのです。主イエスは、しかし神御自身と同質なるお方でありたもう主は、死に打ち勝ち、死を滅ぼされました。こうして主イエスはよみがえられたのです。
よみがえられた主イエスを、まことの神として信じる人々は、死ぬことなく、地上の生活を終えたとしても、主イエスのよみがえりの生命と等しきさまへと変えられるのです。