「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。」 フィリピの信徒への手紙4章6節
ある種の血圧降下剤を常用していると、気分が鬱的になりがちだという医師の本を読んでいるせいか、私としては、気分が塞ぎがちになると、そのことを思い出して「いかん、いかん、思考がネガティブになっているぞ」と自分自身に言い聞かせ、血圧降下剤のせいにしています。
鬱的になると、身体までも重くなるような気がします(もっとも現実的に体重は重いのですが)。
二千年前に、ひとりの青年が語った言葉が、世界中の人々の魂を支えています。
「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。」
これが神の言葉だと言うのですから、従う他はありません。
「はい、主よ。きっぱりと思いわずらうのはやめにします。」こう言わざるをえません。 なにしろ神さまの命令ですから。 そうはいうものの、そう思い切ったつもりが、またまた心配事がムクムクと胸を去来してきては、気分を塞ぎます。
こういう時は、たいてい「思考の流れ」が慣性の法則にしたがって自由な動きができず、大概決まった方向にしか流れて行きません。「思考の癖」というべきでしょうか。こういう流れをグルグルと堂々巡りしてますます落ち込んでしまう。
「この『思考の癖』から抜け出したい。」
「そうでないと、イエスさまの命令に従ったことにならない。」
こんなとき、わたしはイエスさまのことや信仰の偉人たちのことを思い返すことにしています。
イエスさま、アッシジのフランシスコ、田中正造・・・、そして祖父母のことなど。
イエスさまもフランシスコもただ神さまだけに頼って、客観的に見ると、ホームレスのような生活を送りました。
「そうだ、この世の富により頼むのではなく、ただ神さまだけを信じていれば、どんな境遇でも感謝に満ちた日々が送れるではないか・・・・・。」
ヘミングウェイは生涯自分は貧乏だという観念に縛られて自分は不幸だと感じていたとどこかで聞きました。これも思考の癖みたいなものなんでしょうね。
自由ってなんだろう。もしかすると、無一物なのに、世界中が神さまからいただいた授かり物だと感じられる心のありようなのかなぁ・・・。
フランシスコは裕福な商家に生まれたけれども、一切の財物を貧者に施し、自ら施しだけで生きてゆく決心をしました。それが自由ということなのかもしれないな。
こう考えてくると、「よし、今日から一意専心して神と人に仕えてゆくなら、なんくるないさぁ(人事を尽くして天命を待つという意味らしいです)。」
こんな風に考えられるようになりたいものですね。