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    ◆9月の聖句によせて 自分を愛するように隣人を愛しなさい。 レビ記19章18節

    • 2013.08.27 Tuesday
    • 09:14
     隣人を愛するということ、その「仕方」について、主イエスは、「自分を愛するように」という「HOW」をお示しになられました。
     それでは、わたくしどもは、自分を愛するということを、わかっていない人々が、案外多くいるのではないでしょうか。「自分のこと大嫌い」という子どもや大人がいるからです。

     これはいわゆる「自己嫌悪」という事柄とは違います。
     「自己嫌悪」とは自己を嫌悪する「自己」が存在するという意味では、嫌悪するほうの「自己」が「嫌悪」されるべき「自己」を「嫌悪」すべき自己として冷静に評価している訳ですから、この場合、「嫌悪」する主体的自己は、「高み」を目指していると言えるでしょう。つまり向上心があるからこそ、自分のなかの罪を嫌悪するのでしょう。

     それに対して、「自分なんて大嫌い」と叫ばずにおれない子どもや大人は、自尊感情(セルフ・エスティーム)が毀損されているのです。「セルフ・エスティーム」(自尊心 self-esteemとは、心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度。"ありのままの自分を尊重し受け入れる"こと。)が育っていないのです。

     人は、自分自身のことでさえ、「愛する」ことが難しい。
     実際、自分を愛するということは、いわゆる「エゴイズム」とか「エゴセントリシズム」という事とは訳が違います。「わたしは愛されている」という感覚的直感を有する人には、神様が愛したもう「自分」が確実に形成されています。
     他者から無条件の愛を溢れんばかりに受けている人は、神様が愛する「自己」を愛する「術」(すべ)を知っています。
     愛されるという経験をふんだんに享受した魂は、神様に応答する「心」が創られています。そして、愛された経験を臨界点以上にもつものは、他者への「愛し方」を自ずから知っていることでしょう。

    ◆9月の聖句によせて 自分を愛するように隣人を愛しなさい。 レビ記19章18節

    • 2013.08.27 Tuesday
    • 09:14
     隣人を愛するということ、その「仕方」について、主イエスは、「自分を愛するように」という「HOW」をお示しになられました。  それでは、わたくしどもは、自分を愛するということを、わかっていない人々が、案外多くいるのではないでしょうか。「自分のこと大嫌い」という子どもや大人がいるからです。  これはいわゆる「自己嫌悪」という事柄とは違います。  「自己嫌悪」とは自己を嫌悪する「自己」が存在するという意味では、嫌悪するほうの「自己」が「嫌悪」されるべき「自己」を「嫌悪」すべき自己として冷静に評価している訳ですから、この場合、「嫌悪」する主体的自己は、「高み」を目指していると言えるでしょう。つまり向上心があるからこそ、自分のなかの罪を嫌悪するのでしょう。  それに対して、「自分なんて大嫌い」と叫ばずにおれない子どもや大人は、自尊感情(セルフ・エスティーム)が毀損されているのです。「セルフ・エスティーム」(自尊心 self-esteemとは、心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度。"ありのままの自分を尊重し受け入れる"こと。)が育っていないのです。  人は、自分自身のことでさえ、「愛する」ことが難しい。  実際、自分を愛するということは、いわゆる「エゴイズム」とか「エゴセントリシズム」という事とは訳が違います。「わたしは愛されている」という感覚的直感を有する人には、神様が愛したもう「自分」が確実に形成されています。  他者から無条件の愛を溢れんばかりに受けている人は、神様が愛する「自己」を愛する「術」(すべ)を知っています。  愛されるという経験をふんだんに享受した魂は、神様に応答する「心」が創られています。そして、愛された経験を臨界点以上にもつものは、他者への「愛し方」を自ずから知っていることでしょう。

    ★8月の聖句によせて 「あなたがたも愛によって歩みなさい。」エフェソの信徒への手紙5章2節

    • 2013.08.27 Tuesday
    • 09:10
     「愛によって歩む」ということは、「愛」が、自分自身の内部から湧出するということであるよりは、「愛」は、「私」自身の外側にあって、絶えず「私」を「愛」で満たし続けてくれる「力」であるというべきではないでしょうか。

     「私」とはやっかいなもので、いつも利己的な欲望にまみれていて、とてもとても「愛」に溢れているというような存在ではありません。だから、「愛によって歩みなさい」と言われてみても、自分自身には「愛」がないことを痛感している・・・・、という具合ではないでしょうか。
    わたしたちは、むしろ愛されていることを知ってはじめて、愛する喜びへと押し出されるのではないでしょうか。
     神は愛です。神が愛なのです。
     わたしたちは、神さまによって愛されています。この事実を知ることによって、わたしたちは神さまから既に愛されている存在なのだという現実に気付く事ができます。
    愛されていると、その存在は美しくなります。輝くようになります。
     わたしたち自身が、神さまからこよなく愛されている現実のなかで、生命を息吹を輝かせるなら、わたしたちは愛さずにはいられない者へと変えられていることしょう。
     はじめての孫と会うとき、いつしかその孫を産んだ娘を育てていた自分に戻っている自分を見いだします。
    孫への愛は娘への愛と重なってきます。さらに、その眼差しは母が「私」を育ててくれた愛の眼差しだということも。そしてそれはさらに、祖父母からの愛の繋がりだということも感じられてきます。

     この愛の眼差し、見守りは、愛そのものであられる神さまから起源して、「私」へと注がれ、そして我が子、孫へと繋がってゆく・・・・・。この愛の連鎖のなかに、「私」もいるのですね。

     いま、このとき、神さまの愛を運ぶ者として、こどもたちを見つめましょう。
    そうすれば、「愛」は、かならずこどもたちの魂の深部を形成し、「愛」の人格者を形作ることとなるでしょう。

    ★8月の聖句によせて 「あなたがたも愛によって歩みなさい。」エフェソの信徒への手紙5章2節

    • 2013.08.27 Tuesday
    • 09:10
     「愛によって歩む」ということは、「愛」が、自分自身の内部から湧出するということであるよりは、「愛」は、「私」自身の外側にあって、絶えず「私」を「愛」で満たし続けてくれる「力」であるというべきではないでしょうか。  「私」とはやっかいなもので、いつも利己的な欲望にまみれていて、とてもとても「愛」に溢れているというような存在ではありません。だから、「愛によって歩みなさい」と言われてみても、自分自身には「愛」がないことを痛感している・・・・、という具合ではないでしょうか。 わたしたちは、むしろ愛されていることを知ってはじめて、愛する喜びへと押し出されるのではないでしょうか。  神は愛です。神が愛なのです。  わたしたちは、神さまによって愛されています。この事実を知ることによって、わたしたちは神さまから既に愛されている存在なのだという現実に気付く事ができます。 愛されていると、その存在は美しくなります。輝くようになります。  わたしたち自身が、神さまからこよなく愛されている現実のなかで、生命を息吹を輝かせるなら、わたしたちは愛さずにはいられない者へと変えられていることしょう。  はじめての孫と会うとき、いつしかその孫を産んだ娘を育てていた自分に戻っている自分を見いだします。 孫への愛は娘への愛と重なってきます。さらに、その眼差しは母が「私」を育ててくれた愛の眼差しだということも。そしてそれはさらに、祖父母からの愛の繋がりだということも感じられてきます。  この愛の眼差し、見守りは、愛そのものであられる神さまから起源して、「私」へと注がれ、そして我が子、孫へと繋がってゆく・・・・・。この愛の連鎖のなかに、「私」もいるのですね。  いま、このとき、神さまの愛を運ぶ者として、こどもたちを見つめましょう。 そうすれば、「愛」は、かならずこどもたちの魂の深部を形成し、「愛」の人格者を形作ることとなるでしょう。

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