「愛によって歩む」ということは、「愛」が、自分自身の内部から湧出するということであるよりは、「愛」は、「私」自身の外側にあって、絶えず「私」を「愛」で満たし続けてくれる「力」であるというべきではないでしょうか。
「私」とはやっかいなもので、いつも利己的な欲望にまみれていて、とてもとても「愛」に溢れているというような存在ではありません。だから、「愛によって歩みなさい」と言われてみても、自分自身には「愛」がないことを痛感している・・・・、という具合ではないでしょうか。
わたしたちは、むしろ愛されていることを知ってはじめて、愛する喜びへと押し出されるのではないでしょうか。
神は愛です。神が愛なのです。
わたしたちは、神さまによって愛されています。この事実を知ることによって、わたしたちは神さまから既に愛されている存在なのだという現実に気付く事ができます。
愛されていると、その存在は美しくなります。輝くようになります。
わたしたち自身が、神さまからこよなく愛されている現実のなかで、生命を息吹を輝かせるなら、わたしたちは愛さずにはいられない者へと変えられていることしょう。
はじめての孫と会うとき、いつしかその孫を産んだ娘を育てていた自分に戻っている自分を見いだします。
孫への愛は娘への愛と重なってきます。さらに、その眼差しは母が「私」を育ててくれた愛の眼差しだということも。そしてそれはさらに、祖父母からの愛の繋がりだということも感じられてきます。
この愛の眼差し、見守りは、愛そのものであられる神さまから起源して、「私」へと注がれ、そして我が子、孫へと繋がってゆく・・・・・。この愛の連鎖のなかに、「私」もいるのですね。
いま、このとき、神さまの愛を運ぶ者として、こどもたちを見つめましょう。
そうすれば、「愛」は、かならずこどもたちの魂の深部を形成し、「愛」の人格者を形作ることとなるでしょう。