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    ◆7月の聖句によせて 「あなたがたは神に愛されている子どもです。」エフェソの信徒への手紙5章1節

    • 2013.06.29 Saturday
    • 23:50
    ◆7月の聖句によせて
    「あなたがたは神に愛されている子どもです。」 エフェソの信徒への手紙5章1節 
     現在では広く使用されている「アイデンティ」「基本的信頼」という用語を提唱したエリク・H・エリクソンは発達心理学者で、精神分析家として知られていますが、彼はなんと大学の学位なしに、様々な学問領域を横断する基礎的な概念を結晶化させました。

      そしてその影響ははかりしれません。

      「あなたがたは神に愛されている子どもです。」という聖書の言葉を思い巡らしていると、エリクソンを思い出します。

      幼児期に揺るぎない「基本的信頼」を形成することが人格形成上、この上なく大切だということを、聖書の民は、日本文化がいまだ文字ももたない時代から文化遺産として継承してきました。

    その事の偉大さに感動します。 

       わたしは祖父母の時代からのキリスト者ですが、わたしの家族・親族がキリスト教信仰の継承者として成熟してゆくには、まだまだ何世代もかかると思っています。

       なによりも重要なことは何なのか。どんなに厳しい試練を受けても揺るがないまことの神への基本的な信頼。どんな宝にも優る目に見えない宝を次代に受け渡してゆくことは何にもまして大切だと思っています。

      ピッツバーグの一角は全米一のユダヤ人居住地だそうです。安息日にはそれとわかる衣装をまとったユダヤ人が町のここかしこに溢れ、会堂(シナゴーグ)に集まり礼拝を捧げる姿を見ることができるそうです。
      
       ナチスによる絶滅政策(ホロコースト)によっても滅びない信仰の姿を観るとき、自ずから敬服の念が生ずるそうです。そういえばあのエリクソンもユダヤ人でした。

       ユダヤ人が世界文化にどれほど多大な影響を与えてきたかを数えれば、枚挙にいとまがありません。

       神の民として選ばれた人々は、ものを深く考えること、集中し、かつ切り替えて考えること、原則をもって生活をすることなど、優れた霊性、生活態度、倫理的生活を継承し続けています。

        キリスト者は、この神の民から大切なものを学びつつ継承しながら、さらに自由に、さらに深く神と隣人を愛することを生涯の目的としています。 

      子どもたちを、いかなる逆境をも果敢に乗り越え、神と人への愛を貫く、「基本的な信頼」感が充(じゆう)溢(いつ)した人格者へと育てたい、これがキリスト教保育の目的です。


    ◆7月の聖句によせて 「あなたがたは神に愛されている子どもです。」エフェソの信徒への手紙5章1節

    • 2013.06.29 Saturday
    • 23:50
    ◆7月の聖句によせて 「あなたがたは神に愛されている子どもです。」 エフェソの信徒への手紙5章1節 
     現在では広く使用されている「アイデンティ」「基本的信頼」という用語を提唱したエリク・H・エリクソンは発達心理学者で、精神分析家として知られていますが、彼はなんと大学の学位なしに、様々な学問領域を横断する基礎的な概念を結晶化させました。

      そしてその影響ははかりしれません。

      「あなたがたは神に愛されている子どもです。」という聖書の言葉を思い巡らしていると、エリクソンを思い出します。

      幼児期に揺るぎない「基本的信頼」を形成することが人格形成上、この上なく大切だということを、聖書の民は、日本文化がいまだ文字ももたない時代から文化遺産として継承してきました。 その事の偉大さに感動します。 

       わたしは祖父母の時代からのキリスト者ですが、わたしの家族・親族がキリスト教信仰の継承者として成熟してゆくには、まだまだ何世代もかかると思っています。

       なによりも重要なことは何なのか。どんなに厳しい試練を受けても揺るがないまことの神への基本的な信頼。どんな宝にも優る目に見えない宝を次代に受け渡してゆくことは何にもまして大切だと思っています。

      ピッツバーグの一角は全米一のユダヤ人居住地だそうです。安息日にはそれとわかる衣装をまとったユダヤ人が町のここかしこに溢れ、会堂(シナゴーグ)に集まり礼拝を捧げる姿を見ることができるそうです。
      
       ナチスによる絶滅政策(ホロコースト)によっても滅びない信仰の姿を観るとき、自ずから敬服の念が生ずるそうです。そういえばあのエリクソンもユダヤ人でした。

       ユダヤ人が世界文化にどれほど多大な影響を与えてきたかを数えれば、枚挙にいとまがありません。

       神の民として選ばれた人々は、ものを深く考えること、集中し、かつ切り替えて考えること、原則をもって生活をすることなど、優れた霊性、生活態度、倫理的生活を継承し続けています。

        キリスト者は、この神の民から大切なものを学びつつ継承しながら、さらに自由に、さらに深く神と隣人を愛することを生涯の目的としています。 

      子どもたちを、いかなる逆境をも果敢に乗り越え、神と人への愛を貫く、「基本的な信頼」感が充(じゆう)溢(いつ)した人格者へと育てたい、これがキリスト教保育の目的です。


    ◆6月聖句によせて

    • 2013.06.04 Tuesday
    • 12:41
    イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」 ルカによる福音書2章52節

     

      成長期のイエスさまを描いた箇所は、わずかにルカによる福音書にしかありませんが、ここからわたしたちは、自由に想像をふくらませたり、自分の人生と照らし合わせたりして、黙想することができるのです。

     ここで気付かされる事柄は、父なる神の独り子である神・イエス・キリストは、神さま御自身であられたにもかかわらず、なんと、「成長」されるお方であられた!ということです。してみると、「成長」という事柄がいままでとはちがって見えてきます。

     ベツレヘムの馬小屋で、飼い葉桶の中に眠っていた赤ちゃんが、わたしたちと同じような「速度」をもって、「成長」されたもうた・・・・・・・。
     独り子なる神は、わたしたちと同じような有り様で「成長」されるのです。!

    「イエスは知恵が増し、背丈も伸び」と、「知恵」と「背丈」の「成長」が報告されています。「心身の成長」と言い換えられるかもしれません。三歳のイエスさま、四歳のイエスさま、五歳・・・と、想像してみます。ホザナのお友だちがすくすくと成長する姿と重なって見えます。神さまであられながら、「幼な子」でありたもうイエスさまを想像してみます。そしてこの想像が許されるなら、逆にわたしたちは、いま眼前のお友だちの幼な子の姿を通して、主イエスがわたしたちのもとにいて下さるという神を知る道があるのかもしれないと、ふと考えます。いや、きっとイエスさまは、このいとけない幼な子の存在を通して、神と人とを結ぶ主イエス・キリストが共にいてくださるという「インマヌエル」(神われらと共にいましたもう)の現事実を開示してくださっているに違いない、そういう考えに思いいたります。

     わたしも昨年「おじい」になりました。孫をみつめていると、どうしても息子や娘が見えてしまいます。愛しさが溢れてきます。この愛しさが溢れる事実は、いったい何なのでしょう。幼な子は、わたしたちから「愛情」を溢れさせ、引き出す存在です。神は、わたしたちから愛を引き出すような姿をもってご自分を開示された!神は、わたしたちがこどもたちを愛さずにはいられない存在としてわたしたちを創られた!・・・「成長」という事柄は、成長のどの段階においても神さまが御自身をわたしたちから「愛を引き出すお方」としていましたもうという消息を伝えているのです。

    ◆6月聖句によせて 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」ルカによる福音書2章52節

    • 2013.06.04 Tuesday
    • 12:41
     成長期のイエスさまを描いた箇所は、わずかにルカによる福音書にしかありませんが、ここからわたしたちは、自由に想像をふくらませたり、自分の人生と照らし合わせたりして、黙想することができるのです。
     ここで気付かされる事柄は、父なる神の独り子である神・イエス・キリストは、神さま御自身であられたにもかかわらず、なんと、「成長」されるお方であられた!ということです。してみると、「成長」という事柄がいままでとはちがって見えてきます。ベツレヘムの馬小屋で、飼い葉桶の中に眠っていた赤ちゃんが、わたしたちと同じような「速度」をもって、「成長」されたもうた・・・・・・・。
     独り子なる神は、わたしたちと同じような有り様で「成長」されるのです。!「イエスは知恵が増し、背丈も伸び」と、「知恵」と「背丈」の「成長」が報告されています。「心身の成長」と言い換えられるかもしれません。三歳のイエスさま、四歳のイエスさま、五歳・・・と、想像してみます。ホザナのお友だちがすくすくと成長する姿と重なって見えます。神さまであられながら、「幼な子」でありたもうイエスさまを想像してみます。そしてこの想像が許されるなら、逆にわたしたちは、いま眼前のお友だちの幼な子の姿を通して、主イエスがわたしたちのもとにいて下さるという神を知る道があるのかもしれないと、ふと考えます。いや、きっとイエスさまは、このいとけない幼な子の存在を通して、神と人とを結ぶ主イエス・キリストが共にいてくださるという「インマヌエル」(神われらと共にいましたもう)の現事実を開示してくださっているに違いない、そういう考えに思いいたります。
     わたしも昨年「おじい」になりました。孫をみつめていると、どうしても息子や娘が見えてしまいます。愛しさが溢れてきます。この愛しさが溢れる事実は、いったい何なのでしょう。幼な子は、わたしたちから「愛情」を溢れさせ、引き出す存在です。神は、わたしたちから愛を引き出すような姿をもってご自分を開示された!神は、わたしたちがこどもたちを愛さずにはいられない存在としてわたしたちを創られた!・・・「成長」という事柄は、成長のどの段階においても神さまが御自身をわたしたちから「愛を引き出すお方」としていましたもうという消息を伝えているのです。

    ◆6月聖句によせて

    • 2013.06.04 Tuesday
    • 12:41
    イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」 ルカによる福音書2章52節  

      成長期のイエスさまを描いた箇所は、わずかにルカによる福音書にしかありませんが、ここからわたしたちは、自由に想像をふくらませたり、自分の人生と照らし合わせたりして、黙想することができるのです。

     ここで気付かされる事柄は、父なる神の独り子である神・イエス・キリストは、神さま御自身であられたにもかかわらず、なんと、「成長」されるお方であられた!ということです。してみると、「成長」という事柄がいままでとはちがって見えてきます。

     ベツレヘムの馬小屋で、飼い葉桶の中に眠っていた赤ちゃんが、わたしたちと同じような「速度」をもって、「成長」されたもうた・・・・・・・。
     独り子なる神は、わたしたちと同じような有り様で「成長」されるのです。!

    「イエスは知恵が増し、背丈も伸び」と、「知恵」と「背丈」の「成長」が報告されています。「心身の成長」と言い換えられるかもしれません。三歳のイエスさま、四歳のイエスさま、五歳・・・と、想像してみます。ホザナのお友だちがすくすくと成長する姿と重なって見えます。神さまであられながら、「幼な子」でありたもうイエスさまを想像してみます。そしてこの想像が許されるなら、逆にわたしたちは、いま眼前のお友だちの幼な子の姿を通して、主イエスがわたしたちのもとにいて下さるという神を知る道があるのかもしれないと、ふと考えます。いや、きっとイエスさまは、このいとけない幼な子の存在を通して、神と人とを結ぶ主イエス・キリストが共にいてくださるという「インマヌエル」(神われらと共にいましたもう)の現事実を開示してくださっているに違いない、そういう考えに思いいたります。

     わたしも昨年「おじい」になりました。孫をみつめていると、どうしても息子や娘が見えてしまいます。愛しさが溢れてきます。この愛しさが溢れる事実は、いったい何なのでしょう。幼な子は、わたしたちから「愛情」を溢れさせ、引き出す存在です。神は、わたしたちから愛を引き出すような姿をもってご自分を開示された!神は、わたしたちがこどもたちを愛さずにはいられない存在としてわたしたちを創られた!・・・「成長」という事柄は、成長のどの段階においても神さまが御自身をわたしたちから「愛を引き出すお方」としていましたもうという消息を伝えているのです。

    ◆6月聖句によせて 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」ルカによる福音書2章52節

    • 2013.06.04 Tuesday
    • 12:41
     成長期のイエスさまを描いた箇所は、わずかにルカによる福音書にしかありませんが、ここからわたしたちは、自由に想像をふくらませたり、自分の人生と照らし合わせたりして、黙想することができるのです。
     ここで気付かされる事柄は、父なる神の独り子である神・イエス・キリストは、神さま御自身であられたにもかかわらず、なんと、「成長」されるお方であられた!ということです。してみると、「成長」という事柄がいままでとはちがって見えてきます。ベツレヘムの馬小屋で、飼い葉桶の中に眠っていた赤ちゃんが、わたしたちと同じような「速度」をもって、「成長」されたもうた・・・・・・・。
     独り子なる神は、わたしたちと同じような有り様で「成長」されるのです。!「イエスは知恵が増し、背丈も伸び」と、「知恵」と「背丈」の「成長」が報告されています。「心身の成長」と言い換えられるかもしれません。三歳のイエスさま、四歳のイエスさま、五歳・・・と、想像してみます。ホザナのお友だちがすくすくと成長する姿と重なって見えます。神さまであられながら、「幼な子」でありたもうイエスさまを想像してみます。そしてこの想像が許されるなら、逆にわたしたちは、いま眼前のお友だちの幼な子の姿を通して、主イエスがわたしたちのもとにいて下さるという神を知る道があるのかもしれないと、ふと考えます。いや、きっとイエスさまは、このいとけない幼な子の存在を通して、神と人とを結ぶ主イエス・キリストが共にいてくださるという「インマヌエル」(神われらと共にいましたもう)の現事実を開示してくださっているに違いない、そういう考えに思いいたります。
     わたしも昨年「おじい」になりました。孫をみつめていると、どうしても息子や娘が見えてしまいます。愛しさが溢れてきます。この愛しさが溢れる事実は、いったい何なのでしょう。幼な子は、わたしたちから「愛情」を溢れさせ、引き出す存在です。神は、わたしたちから愛を引き出すような姿をもってご自分を開示された!神は、わたしたちがこどもたちを愛さずにはいられない存在としてわたしたちを創られた!・・・「成長」という事柄は、成長のどの段階においても神さまが御自身をわたしたちから「愛を引き出すお方」としていましたもうという消息を伝えているのです。

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