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    生活発表会によせて 2013

    • 2013.01.28 Monday
    • 15:06
    「ほめてあげてください。」とことある毎にわたくしはみなさまにお伝えしてきました。「ほめる」ことで、こどもたちは、とりくんできたことへの努力が報われたという実感を味わうことができるからです。けんめいにお仕事をした結果が「できた!」という達成感を味わうだけでなしに、そこで感動している自分を正しく評価してくれる大人がいるという経験は、快感となって自信を造り上げるでしょう。だからこそ的確に「ほめる」ことが教育には大切なことだと思われるのです。
     
     ただし、的確にほめるということを意識していないと、逆効果になりかねません。

      ある職場に心理学の専門家がいました。その人は部下をやたらとほめる人でした。どうでもいいような簡単な仕事もほめるし、怠けている人にもほめるので、しまいにその人がほめても誰もほめられた気がしなくなってしまいました。その心理学の専門家は「的確にほめる」ということをしなかった結果でした。

      努力もしていないのにほめられると、わたしたちは努力して仕事に挑戦する事への意欲を失ったり、もしできなかった時に恥ずかしいと思ったりするものです。「ほめる」ことで、かえって、出来ないことに挑戦する気概を持てない子ども、そのため自己評価が低い子どもになったりする危険があります。

      ほめる場合には、注意すべきことが二つあるように思います。

      その第1は、才能をほめるのではなく、努力した事自体をほめるということです。生まれながらの才能や知能の潜在的可能性は神さまから与えられた賜物です。わたしたちには、その賜物を伸ばし、何倍にもして神さまからいただいたギフト(贈り物、賜物)を最大限に輝かせる(発揮する)責任が命じられています。それゆえ、神さまからいただいている原石をほめるのではなく、原石をいかに磨くかについての責任をこそ評価すべきです。たとえば、「君は頭がいいね。賢いね。」とかいうことは、よくない。むしろ、「やったね。頑張ったね。」と、努力した事を評価したほうがよい、ということです。

      第2は、感動することです。モンテッソーリ教育を学ぶ会で、算数教具の提示を学んだ方々は、口々の、「算数がこんなに楽しいって知らなかった」と言われます。たぶん、それは抽象的な数の世界と、現実の世界が実は緊密につながっていて、不思議な法則がひそんでいるという発見を追体験させてくれるからではないでしょうか。この体験による感動を味わったこどもは、学ぶことの楽しさを知っているので、次から次へと学ぶことを探し求めるようになるのではないでしょうか。

      ほめるということは、いっしょに感動するということ、いっしょにこどもと楽しむということなのではないでしょうか。こどもがお仕事を完成したと感動している一瞬の心の動きを見逃さず、たとえ言葉にならなくても、目と目があうそのアイコンタクトだけで、こどもの感動をいっしょに喜ぶこと、そのことで子どもは見守れていること、共に喜んでいることを感じとり、それが自信へとつながってゆくのです。

     生活発表会に至るまでの過程で子どもたちはひとりひとり様々な体験をしました。それはどれもが大切な体験です。ひとひとりがそれぞれ大切な体験をしているでしょう。的確にほめるということを念頭におきながら、どうかこどもたちと喜び・感動を共にしてほしいと願っております。

    生活発表会によせて 2013

    • 2013.01.28 Monday
    • 15:06
    「ほめてあげてください。」とことある毎にわたくしはみなさまにお伝えしてきました。「ほめる」ことで、こどもたちは、とりくんできたことへの努力が報われたという実感を味わうことができるからです。けんめいにお仕事をした結果が「できた!」という達成感を味わうだけでなしに、そこで感動している自分を正しく評価してくれる大人がいるという経験は、快感となって自信を造り上げるでしょう。だからこそ的確に「ほめる」ことが教育には大切なことだと思われるのです。
     
     ただし、的確にほめるということを意識していないと、逆効果になりかねません。

      ある職場に心理学の専門家がいました。その人は部下をやたらとほめる人でした。どうでもいいような簡単な仕事もほめるし、怠けている人にもほめるので、しまいにその人がほめても誰もほめられた気がしなくなってしまいました。その心理学の専門家は「的確にほめる」ということをしなかった結果でした。

      努力もしていないのにほめられると、わたしたちは努力して仕事に挑戦する事への意欲を失ったり、もしできなかった時に恥ずかしいと思ったりするものです。「ほめる」ことで、かえって、出来ないことに挑戦する気概を持てない子ども、そのため自己評価が低い子どもになったりする危険があります。

      ほめる場合には、注意すべきことが二つあるように思います。

      その第1は、才能をほめるのではなく、努力した事自体をほめるということです。生まれながらの才能や知能の潜在的可能性は神さまから与えられた賜物です。わたしたちには、その賜物を伸ばし、何倍にもして神さまからいただいたギフト(贈り物、賜物)を最大限に輝かせる(発揮する)責任が命じられています。それゆえ、神さまからいただいている原石をほめるのではなく、原石をいかに磨くかについての責任をこそ評価すべきです。たとえば、「君は頭がいいね。賢いね。」とかいうことは、よくない。むしろ、「やったね。頑張ったね。」と、努力した事を評価したほうがよい、ということです。

      第2は、感動することです。モンテッソーリ教育を学ぶ会で、算数教具の提示を学んだ方々は、口々の、「算数がこんなに楽しいって知らなかった」と言われます。たぶん、それは抽象的な数の世界と、現実の世界が実は緊密につながっていて、不思議な法則がひそんでいるという発見を追体験させてくれるからではないでしょうか。この体験による感動を味わったこどもは、学ぶことの楽しさを知っているので、次から次へと学ぶことを探し求めるようになるのではないでしょうか。

      ほめるということは、いっしょに感動するということ、いっしょにこどもと楽しむということなのではないでしょうか。こどもがお仕事を完成したと感動している一瞬の心の動きを見逃さず、たとえ言葉にならなくても、目と目があうそのアイコンタクトだけで、こどもの感動をいっしょに喜ぶこと、そのことで子どもは見守れていること、共に喜んでいることを感じとり、それが自信へとつながってゆくのです。

     生活発表会に至るまでの過程で子どもたちはひとりひとり様々な体験をしました。それはどれもが大切な体験です。ひとひとりがそれぞれ大切な体験をしているでしょう。的確にほめるということを念頭におきながら、どうかこどもたちと喜び・感動を共にしてほしいと願っております。

    昨年の生活発表会にむけての言葉を再録

    • 2013.01.22 Tuesday
    • 14:00
    発表会によせて
     「生活発表会」・・・とは、よく名付けてくれたと思います。
    先覚者の知恵を感じます。
    ある方から次のような話を伺いました。
      ある園の未就園クラスに参加した時のこと、
    「そんなんじゃ、お父さん、お母さんに見せられないでしょう。しっかりやって!」という先生の叱咤激励の声が耳に入ってきてしまった、とてもショックだったというのです。

    ホザナのゆったりとした生活の流れでは、こういう声はありません。またあってはならないものと思っています。
      文字通り、「生活」が「発表」という機会を得て、活き活きと表現され、そこに何よりもこどもたちの溢れんばかりの喜びが現わされる場が「生活発表会」と呼ばれる、わたしたちはこのように考えます。

      普段のこどもたちの発見に満ちた、好奇心、集中現象、夢中になって転げ回って自由を、自由に、体験する豊かな世界が、保護者の方々との愛着を動機としてより一層豊かに、発酵する機会、それこそがわたくしたちの願う「生活発表会」です。

      ゆめゆめこどもをある方向に誘導し、集団訓練し、大人の指示通りに動くというようなこどもをつくりあげるようなことはあってはならない・・・。

      先生たちには、毅然とした成熟した威厳ある大人として、ゆっくりと静かに、こどもの内面世界に意識を集中し、祈りをもって適切な言葉を探し、紡いでゆく努力をしていただきたいと願っています。

      園長も年長さんの劇の効果音作成に参加しました。セリフ収録の時の、こどもたちの輝く目がとってもまぶしくて、嬉しい気持ちで一杯になりました。背景音に合わせた練習では、ものずごい盛り上がりをみせてくれました。ひとつひとつを作り上げてゆくプロセスそのものがこどもたちの心を育てている、そんな自分自身の「生活」を家族の方々、お友だちに見せたい、そのような思いを温かく、見守り、応援してくださればと願っています。
     

                             園長 清水与志雄

    昨年の生活発表会にむけての言葉を再録

    • 2013.01.22 Tuesday
    • 14:00
    発表会によせて
     「生活発表会」・・・とは、よく名付けてくれたと思います。
    先覚者の知恵を感じます。
    ある方から次のような話を伺いました。
      ある園の未就園クラスに参加した時のこと、
    「そんなんじゃ、お父さん、お母さんに見せられないでしょう。しっかりやって!」という先生の叱咤激励の声が耳に入ってきてしまった、とてもショックだったというのです。

    ホザナのゆったりとした生活の流れでは、こういう声はありません。またあってはならないものと思っています。
      文字通り、「生活」が「発表」という機会を得て、活き活きと表現され、そこに何よりもこどもたちの溢れんばかりの喜びが現わされる場が「生活発表会」と呼ばれる、わたしたちはこのように考えます。

      普段のこどもたちの発見に満ちた、好奇心、集中現象、夢中になって転げ回って自由を、自由に、体験する豊かな世界が、保護者の方々との愛着を動機としてより一層豊かに、発酵する機会、それこそがわたくしたちの願う「生活発表会」です。

      ゆめゆめこどもをある方向に誘導し、集団訓練し、大人の指示通りに動くというようなこどもをつくりあげるようなことはあってはならない・・・。

      先生たちには、毅然とした成熟した威厳ある大人として、ゆっくりと静かに、こどもの内面世界に意識を集中し、祈りをもって適切な言葉を探し、紡いでゆく努力をしていただきたいと願っています。

      園長も年長さんの劇の効果音作成に参加しました。セリフ収録の時の、こどもたちの輝く目がとってもまぶしくて、嬉しい気持ちで一杯になりました。背景音に合わせた練習では、ものずごい盛り上がりをみせてくれました。ひとつひとつを作り上げてゆくプロセスそのものがこどもたちの心を育てている、そんな自分自身の「生活」を家族の方々、お友だちに見せたい、そのような思いを温かく、見守り、応援してくださればと願っています。  

                             園長 清水与志雄

    2013年」1月の聖句によせて

    • 2013.01.11 Friday
    • 13:17
     ◆聖句によせて
    「あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」
                       フィリピの信徒への手紙1章9〜10節
     赤ちゃんは、ものすごい勢いで成長しています。一生懸命にものを見つめます。その観察力は大人をはるかにしのぐものだと言われています。意外なことですが赤ちゃんの識別能力は成人より高いのだそうです。
     赤ちゃんに、異なった猿の顔を見せると、赤ちゃんがしっかり識別していることが実験でわかるそうです。それに対して大人は異なった猿の相違を識別できないのだそうです。しかし、赤ちゃんのこの識別力は、その時期に必要な識別力であり、やがてそのような識別力は失われ、必要な認識力の獲得の段階へと移行してゆきます。どうやら成長するということは、必要な能力だけに的をしぼって、不必要な能力を捨てて行くということでもあるようなのです。
     こどもたちは生涯を通して成長し続けます。大人のわたしたちもまた成長の途上にあります。人生の黄昏を迎えようとするわたしでさえ、成長の途上なのです。もうこれでいいという事は決してありません。人生は何が重要で何が重要でないのか、選択の連続とも言えます。「生きる力」を養うということが教育の目標だと言われますが、生きる力は、ます生きようとうする意志がなければそもそも養いようがありません。生きようとする力は、何かを捨てて、何かを鍛えるという選択の意志でしょう。
     人生の若い時期に、神を知ることほど重要な選択はないでしょう。神さまほど偉大な存在はないからです。神さまは力の源であり、目的であり、よりどころです。人間を超越した存在に常に畏敬をもって生きる生き方とそうでない生き方には自ずから相違が出てくるものです。神さま(イエス)は人生いかに生きるべきかという倫理的なモデルを明示してくれる方です。神さまはものの考え方、見つめ方を正確に、厳密に識別する力を要求されるがゆえに、わたしたちは物事を識別する力が養われるでしょう。
     聖書は、ビブロス、つまり端的に「本」という意味です。聖書を大切に読むということを教会は伝統として引き継いできました。聖書は神の言葉であり、神の民の歴史であり、神の啓示の書物だと信じてきました。それは「そうだからそうだとしか言えない」という信仰によって引き継がれてきました。そのため聖書を読むということを、幼い時から真剣に学び、教えてきたのです。そのために、読む力、識別する力が鍛錬される事になったのです。世界的な知性人が聖書の民から生まれてきた事実を私たちは多く知っています。私たちも今日から聖書を読む民の仲間入りを致しましょう。

    2013年」1月の聖句によせて

    • 2013.01.11 Friday
    • 13:17
     ◆聖句によせて
    「あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」
                       フィリピの信徒への手紙1章9〜10節
     赤ちゃんは、ものすごい勢いで成長しています。一生懸命にものを見つめます。その観察力は大人をはるかにしのぐものだと言われています。意外なことですが赤ちゃんの識別能力は成人より高いのだそうです。
     赤ちゃんに、異なった猿の顔を見せると、赤ちゃんがしっかり識別していることが実験でわかるそうです。それに対して大人は異なった猿の相違を識別できないのだそうです。しかし、赤ちゃんのこの識別力は、その時期に必要な識別力であり、やがてそのような識別力は失われ、必要な認識力の獲得の段階へと移行してゆきます。どうやら成長するということは、必要な能力だけに的をしぼって、不必要な能力を捨てて行くということでもあるようなのです。
     こどもたちは生涯を通して成長し続けます。大人のわたしたちもまた成長の途上にあります。人生の黄昏を迎えようとするわたしでさえ、成長の途上なのです。もうこれでいいという事は決してありません。人生は何が重要で何が重要でないのか、選択の連続とも言えます。「生きる力」を養うということが教育の目標だと言われますが、生きる力は、ます生きようとうする意志がなければそもそも養いようがありません。生きようとする力は、何かを捨てて、何かを鍛えるという選択の意志でしょう。
     人生の若い時期に、神を知ることほど重要な選択はないでしょう。神さまほど偉大な存在はないからです。神さまは力の源であり、目的であり、よりどころです。人間を超越した存在に常に畏敬をもって生きる生き方とそうでない生き方には自ずから相違が出てくるものです。神さま(イエス)は人生いかに生きるべきかという倫理的なモデルを明示してくれる方です。神さまはものの考え方、見つめ方を正確に、厳密に識別する力を要求されるがゆえに、わたしたちは物事を識別する力が養われるでしょう。
     聖書は、ビブロス、つまり端的に「本」という意味です。聖書を大切に読むということを教会は伝統として引き継いできました。聖書は神の言葉であり、神の民の歴史であり、神の啓示の書物だと信じてきました。それは「そうだからそうだとしか言えない」という信仰によって引き継がれてきました。そのため聖書を読むということを、幼い時から真剣に学び、教えてきたのです。そのために、読む力、識別する力が鍛錬される事になったのです。世界的な知性人が聖書の民から生まれてきた事実を私たちは多く知っています。私たちも今日から聖書を読む民の仲間入りを致しましょう。

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