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    2012年12月 <クリスマス・メッセージ> 

    • 2012.12.04 Tuesday
    • 12:03
     ◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ> 
     「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
                       ヨハネによる福音書1章9節
     冬になると夜が長くなり、寒さも厳しくなります。樹木は落葉し、冬枯れの景色へと移ります。乾いた夜空の星々は煌々と光り輝き、それを見つめていると心も澄み渡るようです。そのなかで一際大きく輝く星が動き、ある村はずれの家畜小屋のうえで止まりました。あたかもその小さくて貧しい佇まいをした小屋を指し示しているかのようです。
     クリスマスの光景を、心に思い浮かべる季節に入りました。アドヴェント(待降節)です。クランツをつくり、聖日ごとにロウソクを一本ずつ灯して、主イエス・キリストの降誕を、今か今かと待つ〈時〉です。わたしたちの生活のリズムがクリスマスという山頂をめざして一歩一歩、時が刻まれてゆきます。この時の刻印を〈味わうかのように〉、心に刻みながら、わたしたちは魂を整えるのです。
     ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストを「光」と呼びました。その光は「まことの光」だとおも。「まことの」という言葉の意味は特別な意味があります。
     この世界は、「まことの」という形容を伴う美辞麗句で充ち満ちています。「ヒーリング」「スピリチュアル」「占い」「手相」「方角」「印相」「姓名判断」「除霊」などなどきりがありません。しかし、これらが、「まことの」と形容するのは、実はその中身が「まことではない」という事を覆い隠すためでしかありません。つまり、惑わす者が、この言葉を使うことによって人を惑わすので、人は惑わされ、振り回されるという果実を結ぶことになるのです。本物なのか偽物なのか、識別する眼力が必要になります。それでは、わたしたちはどのようにして「まこと」であるのかないのかを識別できるのでしょうか。
     それは、「まことの」と形容されているあの「光」すなわち主イエス・キリストが放っている輝きが照らしている「世」そして「すべての人」が主イエス・キリストの光で、どのような果実を結んでいるかによって識別出来るし、また実は識別しなければならないのです。「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野バラからぶどうは集められない。」(ルカ6:44)
     主イエス・キリストの光によって照らされた人がどのように救われ、人生を変えていただているかを観ることで識別できます。主イエスこそ、まことに、まことの光であることは、照らされたわたくしどもの人生によって実証されるのです。感謝。

    2012年12月 <クリスマス・メッセージ> 

    • 2012.12.04 Tuesday
    • 12:03
     ◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ> 
     「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
                       ヨハネによる福音書1章9節
     冬になると夜が長くなり、寒さも厳しくなります。樹木は落葉し、冬枯れの景色へと移ります。乾いた夜空の星々は煌々と光り輝き、それを見つめていると心も澄み渡るようです。そのなかで一際大きく輝く星が動き、ある村はずれの家畜小屋のうえで止まりました。あたかもその小さくて貧しい佇まいをした小屋を指し示しているかのようです。
     クリスマスの光景を、心に思い浮かべる季節に入りました。アドヴェント(待降節)です。クランツをつくり、聖日ごとにロウソクを一本ずつ灯して、主イエス・キリストの降誕を、今か今かと待つ〈時〉です。わたしたちの生活のリズムがクリスマスという山頂をめざして一歩一歩、時が刻まれてゆきます。この時の刻印を〈味わうかのように〉、心に刻みながら、わたしたちは魂を整えるのです。
     ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストを「光」と呼びました。その光は「まことの光」だとおも。「まことの」という言葉の意味は特別な意味があります。
     この世界は、「まことの」という形容を伴う美辞麗句で充ち満ちています。「ヒーリング」「スピリチュアル」「占い」「手相」「方角」「印相」「姓名判断」「除霊」などなどきりがありません。しかし、これらが、「まことの」と形容するのは、実はその中身が「まことではない」という事を覆い隠すためでしかありません。つまり、惑わす者が、この言葉を使うことによって人を惑わすので、人は惑わされ、振り回されるという果実を結ぶことになるのです。本物なのか偽物なのか、識別する眼力が必要になります。それでは、わたしたちはどのようにして「まこと」であるのかないのかを識別できるのでしょうか。
     それは、「まことの」と形容されているあの「光」すなわち主イエス・キリストが放っている輝きが照らしている「世」そして「すべての人」が主イエス・キリストの光で、どのような果実を結んでいるかによって識別出来るし、また実は識別しなければならないのです。「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野バラからぶどうは集められない。」(ルカ6:44)
     主イエス・キリストの光によって照らされた人がどのように救われ、人生を変えていただているかを観ることで識別できます。主イエスこそ、まことに、まことの光であることは、照らされたわたくしどもの人生によって実証されるのです。感謝。

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