「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください。」
ルカによる福音書15章9節
失われた銀貨の譬えを、そのまま素直に読んでみました。
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 ルカ15:8 〜15:10
誰もが生まれながらにして平等に「原罪」(神と人を愛せない悲惨さ)を免れないという厳しい人間観を聖書は告げています。神さまから離れてしまった人間をこの譬えは「失われた銀貨」に喩えています。
そして神様がこの喩えでは「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」に喩えられています。ドラクメ銀貨一枚が全財産だとすると、実はこの女性は貧しい女性です(現在なら2〜3万円というところと想定してみてください)。神さまを貧しい女性に喩えるというところなどは、「超絶した絶対者」という神観に固執している人々からみれば、きっと「神への冒涜」と目に映ったことでしょう。
15章の冒頭を見ると、主イエスは、「ファリサイ派や律法学者たちが不平を言い出した」という状況を確認してから譬え話をされています。「不平」の原因は、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」という事実を、「ファリサイ派や律法学者たち」が受け入れられなかったからでした。
「徴税人や罪人」は当時の社会層で、被差別の立場におかれていた人々です。主イエスの話を聞こうと差別されていた人々が「皆」近寄ってきて、一緒に食事までしている有り様自体が、がんじがらめの「差別の構造」を完全に打破することだった!・・・のです。
主イエスが、神様を貧しい女性に喩えることができた「自由さ」は、主イエスが生まれ育った環境世界を、完全に超え出たところから語り始めることができた事を示しているのではないでしょうか。
さて、10枚の銀貨のうち1枚が失われ、それをどこまでも見つけ出すまで探し出すという様子が語られます。「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて」見つけ出すまで念を入れて探すのだと、主イエスは神さまの「失われた」人間を御許へと取り戻す熱意を語られました。神さまの人間への愛の深さが、この譬え(熱意)で示されています。
10枚のうち1枚とは十分の一ですが、全人類の十分の一ならば6億7千万人です。数で表せばそうなりますが、わたしたち自分に向けられた神さまの愛は、あくまで一対一です。神さまがどれほどの愛を注がれているかというと、全人類の十分の一にもなるのかと、すこし穿(うが)ちすぎる見方かもしれませんが、67億分の一じゃなくて十分の一なのかと考えれば、神さまが「わたしをそんなにも価値あるものとして見ていてくださるのか」と思えて嬉しくなります。
差別されていた人々が、社会の中で閉め出されていた境遇で、この譬えを聞いたとき、「自分のことを神さまはそんなにも大事に思ってくれていたのか」と心底思えたのではないかなと思います。
それにしても銀貨一枚が二〜三千円だとすれば、どうでしょうか。「中産階級」以上の人ならば諦めてしまうかもしれませんね。主イエスがこの金額を選んだのはどうしてなのか、想像をたくましくてしてみます。この金額、大金とまではいきません。大金ではないけれども、この女性には「見つけ出すまで労苦を惜しまないほどの価値あるものだった」ということなのです。つまり二〜三千円がこよなく大切だと思えるほどにこの女性は貧困のなかにおかれていた・・・。彼女にはこの二〜三千円がどうしても必要だった。この女性に比喩される 神さまは、わたしたちが必要だということです。神さま御自身が貧しきお方なのだということです。ルカはこう語りたかったのではないか。ルカはキリスト者のあるべき姿として「理念としての貧者」を何度も提示します。人はこの世において「貧しい存在であること自体が救い」なのだ、これが「理念としての貧者」です。神さまは、主イエスさまは御自身が人の救うために貧しくなられたと、ルカはそう語りたかった・・・・・。
こうみてくると、わたしには主イエスが、この譬えを通じて、こんなふうに語りかけてくるように思えるのです。
「わたしにはあなたが必要なのです。あなたを見つけ出すまでわたしはあなたをどこまでも探します。あなたを見つけ出すまでどんな労苦も厭わない」
このイエスの声は、わたしたちが親として子どもたちに、毎日語りかけている「内心の声」と同じです。
見つけ出したならば、神さまとわたしたちが、お互いが必要としている。そして一緒に喜ぶことを、神さまは望んでおられる。親と子が、一緒に喜ぶこと。それは、実は誰よりわたしたち自身が願っていることでもあります。