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    統合教育について園長が思うこと

    • 2012.09.27 Thursday
    • 18:28
     ホザナ幼稚園では、「心身に障碍をもっていても、共に成長する喜びを分かち合う“インクルーディング(包括的)な統合保育を行っています。」と教育方針で謳っています。
     
     いわゆる「統合教育」を三本柱の重要な一つとしています。ただ、全埼玉私立幼稚園連合の紹介ページではかなり以前の園長が書いたもので、日々進化している現在の状況とは大きく様変わりしているので、詳細は最新の本園サイトのほうを読んでいただきたいのですが、根本的なものは変わりません。 

     本園では、先覚的に統合教育を行ってきましたが、統合教育だからといって、入園をご希望するすべての方を全員入園していただいている訳ではありません。本園の現実的な教育力、規模、お子さまの状態などさまざまな要素を検討して受け入れが可能かを審査したうえで入園していただくことができるかどうか決定しております。

      統合教育は、障がいをもつお子さまだけでなく健常児の心身の発達、成長のために大きな意味を持っています。差別や偏見から自由な感性、それぞれの個性を認めあう柔軟な感性が統合教育の場では育ちます。しかし、そのよさを最大限に発揮するためにはそのための有効かつ最適な環境を整備することが必要となります。

      一クラスに1名、原則としては3名から4名が本園としての受け入れ可能な環境と考えており、他の幼稚園でも同じような割合で受け入れてくだされば、ほとんどのの障がい児の方は幼稚園教育を受けることができるはずです。その意味でも、本園のような方針を他園でもとっていただくことが望ましいと考えます。

      ところが、他園で入園を断られたという経験をされる方が相談に来られるケースがあるのも事実です。わたしとしてはとても残念な気がします。

     ノーマライゼイション(「障害者を排除するのではなく、障害を持っていても健常者と均等に当たり前に生活できるような社会こそがノーマルな社会である」という考え方)の時代に、多くの園が教師にとって一斉指導しやすいこどもばかり集めているのは、教育力に自信がないからだろうかと訝らざるを得ません。

      障がいをもつこどもたのためにも健常児のためにも、ひとりひとりに配慮できる教育環境の整備に努めることは誠実な幼稚園ならば当然のことだろうと考えます。

      本園は、統合教育、インクルージョン教育(障害の有無にかかわらず、一人一人の教育的ニーズに応じた教育)の最良の方法こそがモンテッソーリ教育だと確信して、少人数縦割り自由保育を選択しました。既に少人数縦割り自由保育によるモンテソーリ教育こそもっとも高度な教育方法だということはグローバル・スタンダードとなっています。この方法だからこそ、統合教育、インクルージョン教育が可能となるのです。 

     少人数縦割り自由保育ですので、自ずから最適環境とはどの程度かという見極めが教育者には必要です。

      そのために、残念ですが障がいをもっているお子さまの入園希望者の方全員のご希望をかなえることができないかもしれません。

     しかし、それは絶対原則だという審査基準ではありません。障がいの状態、配置可能な教師の配分などによってわたしたちは祈りをもってできるかぎりよりよい選択を模索しています。

    はじめから諦めてしまうのではなく、門を叩いてみてください。何らかの道が開かれてくるかもしれません。

      求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
    捜せ、そうすれば、見出すであろう。
      門を叩け、そうすれば、開けてもらえるであろう。  マタイによる福音書26章64節

    統合教育について園長が思うこと

    • 2012.09.27 Thursday
    • 18:28
     ホザナ幼稚園では、「心身に障碍をもっていても、共に成長する喜びを分かち合う“インクルーディング(包括的)な統合保育を行っています。」と教育方針で謳っています。
     
     いわゆる「統合教育」を三本柱の重要な一つとしています。ただ、全埼玉私立幼稚園連合の紹介ページではかなり以前の園長が書いたもので、日々進化している現在の状況とは大きく様変わりしているので、詳細は最新の本園サイトのほうを読んでいただきたいのですが、根本的なものは変わりません。 

     本園では、先覚的に統合教育を行ってきましたが、統合教育だからといって、入園をご希望するすべての方を全員入園していただいている訳ではありません。本園の現実的な教育力、規模、お子さまの状態などさまざまな要素を検討して受け入れが可能かを審査したうえで入園していただくことができるかどうか決定しております。

      統合教育は、障がいをもつお子さまだけでなく健常児の心身の発達、成長のために大きな意味を持っています。差別や偏見から自由な感性、それぞれの個性を認めあう柔軟な感性が統合教育の場では育ちます。しかし、そのよさを最大限に発揮するためにはそのための有効かつ最適な環境を整備することが必要となります。

      一クラスに1名、原則としては3名から4名が本園としての受け入れ可能な環境と考えており、他の幼稚園でも同じような割合で受け入れてくだされば、ほとんどのの障がい児の方は幼稚園教育を受けることができるはずです。その意味でも、本園のような方針を他園でもとっていただくことが望ましいと考えます。

      ところが、他園で入園を断られたという経験をされる方が相談に来られるケースがあるのも事実です。わたしとしてはとても残念な気がします。

     ノーマライゼイション(「障害者を排除するのではなく、障害を持っていても健常者と均等に当たり前に生活できるような社会こそがノーマルな社会である」という考え方)の時代に、多くの園が教師にとって一斉指導しやすいこどもばかり集めているのは、教育力に自信がないからだろうかと訝らざるを得ません。

      障がいをもつこどもたのためにも健常児のためにも、ひとりひとりに配慮できる教育環境の整備に努めることは誠実な幼稚園ならば当然のことだろうと考えます。

      本園は、統合教育、インクルージョン教育(障害の有無にかかわらず、一人一人の教育的ニーズに応じた教育)の最良の方法こそがモンテッソーリ教育だと確信して、少人数縦割り自由保育を選択しました。既に少人数縦割り自由保育によるモンテソーリ教育こそもっとも高度な教育方法だということはグローバル・スタンダードとなっています。この方法だからこそ、統合教育、インクルージョン教育が可能となるのです。 

     少人数縦割り自由保育ですので、自ずから最適環境とはどの程度かという見極めが教育者には必要です。

      そのために、残念ですが障がいをもっているお子さまの入園希望者の方全員のご希望をかなえることができないかもしれません。

     しかし、それは絶対原則だという審査基準ではありません。障がいの状態、配置可能な教師の配分などによってわたしたちは祈りをもってできるかぎりよりよい選択を模索しています。 はじめから諦めてしまうのではなく、門を叩いてみてください。何らかの道が開かれてくるかもしれません。

      求めよ、そうすれば、与えられるであろう。 捜せ、そうすれば、見出すであろう。
      門を叩け、そうすれば、開けてもらえるであろう。  マタイによる福音書26章64節

    10月の聖句によせて

    • 2012.09.26 Wednesday
    • 12:12
     「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」 
                                             マルコによる福音書4章27節 

       若い頃に庭仕事に興味をもたなかったのは何故なのだろうと時々思います。今は土をいじる時に何とも言えない幸福感を感じるので、この幸せをどうしてあの時代に感じられなかったのか不思議に思うのです。
     もしかすると、土と離れた生活をしていたのかなとも思うのです。この年齢になってしみじみと思うのは、人の生活というのは、土にまみれる時間が必要なのではないかということです。種を植え、苗を植え、毎日観察していると、草花は雨が降る度にぐんぐん、陽光が照りつけるとぐいぐいと伸びてゆきます。そこはかとなく伝わる感動がこころにしみてきます。
     
     「神さまが働いてくださっている」という思いは、わたしたちは「信仰」だとか「宗教」から来ていると漠然と思い込んでいます。けれども、種から芽が出て、ぐんぐんと茎を伸ばし、やがて花を咲かせ、実が実るという自然のありさまを観察するという行為はわたしたち人の態度としては、信仰とか宗教とか限らないものでしょう。科学的な態度はまず観察することから始まります。信仰とか科学とか区別する必要もない基本的な態度なのではないでしょうか。

     主イエスは、「どうしてそうなるのか」という根源的なものを問う態度と、その答えについての「無知」の現実を語られました。「どうしてそうなるのか、その人は知らない」という現実です。「自分が知らない」という「無知の知」こそが「知」を愛することの初めだということはギリシャの哲学者(愛智者)も自覚していたことです。「無知の知」の自覚から、さらなる「知」(どうしてそうなるのか)へと探求してゆくことが科学の始まりでした。

     「神さまが働いてくださっている」という、ひとつの答え方は、最終的な答えではなく最初の答えです。わたしたちの人智を超えた「働き」が働いているという答えは、最初の答えだからです。わたしたちが知り得ない事柄だけれども、たしかにその「力」が働いているからこそ、この「自然の成長」が眼前にある。これは最初の科学的知見でもありました。「自然の成長」という「結果」には、「神の力」という人智を超えた「原因」があるという推論がなされているからです。
      
     古代人の科学の知見は、いまや現代のわたしたちにとっては「信仰内容」となりました。しかしそれは決して過去のものではありません。この知見は、「知の探求」を更に促し、感動を与え続けているのです。

    10月の聖句によせて

    • 2012.09.26 Wednesday
    • 12:12
     「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」 
                                             マルコによる福音書4章27節 

       若い頃に庭仕事に興味をもたなかったのは何故なのだろうと時々思います。今は土をいじる時に何とも言えない幸福感を感じるので、この幸せをどうしてあの時代に感じられなかったのか不思議に思うのです。
     もしかすると、土と離れた生活をしていたのかなとも思うのです。この年齢になってしみじみと思うのは、人の生活というのは、土にまみれる時間が必要なのではないかということです。種を植え、苗を植え、毎日観察していると、草花は雨が降る度にぐんぐん、陽光が照りつけるとぐいぐいと伸びてゆきます。そこはかとなく伝わる感動がこころにしみてきます。
     
     「神さまが働いてくださっている」という思いは、わたしたちは「信仰」だとか「宗教」から来ていると漠然と思い込んでいます。けれども、種から芽が出て、ぐんぐんと茎を伸ばし、やがて花を咲かせ、実が実るという自然のありさまを観察するという行為はわたしたち人の態度としては、信仰とか宗教とか限らないものでしょう。科学的な態度はまず観察することから始まります。信仰とか科学とか区別する必要もない基本的な態度なのではないでしょうか。

     主イエスは、「どうしてそうなるのか」という根源的なものを問う態度と、その答えについての「無知」の現実を語られました。「どうしてそうなるのか、その人は知らない」という現実です。「自分が知らない」という「無知の知」こそが「知」を愛することの初めだということはギリシャの哲学者(愛智者)も自覚していたことです。「無知の知」の自覚から、さらなる「知」(どうしてそうなるのか)へと探求してゆくことが科学の始まりでした。

     「神さまが働いてくださっている」という、ひとつの答え方は、最終的な答えではなく最初の答えです。わたしたちの人智を超えた「働き」が働いているという答えは、最初の答えだからです。わたしたちが知り得ない事柄だけれども、たしかにその「力」が働いているからこそ、この「自然の成長」が眼前にある。これは最初の科学的知見でもありました。「自然の成長」という「結果」には、「神の力」という人智を超えた「原因」があるという推論がなされているからです。
      
     古代人の科学の知見は、いまや現代のわたしたちにとっては「信仰内容」となりました。しかしそれは決して過去のものではありません。この知見は、「知の探求」を更に促し、感動を与え続けているのです。

    9月の聖句によせて  フィリポは、「来て、見なさい」言った。

    • 2012.09.23 Sunday
    • 14:36
     ◆聖句によせて
     フィリポは、「来て、見なさい」言った。
                    ヨハネによる福音書1章46節
     キリスト教信仰を告白した明治期の人に熊本バンドの小崎弘道がいます。同志社社長(当時は総長と言わずに社長と呼びました)にもなった人で、YMCAを創設したり時代を牽引した『六合雑誌』を発行したり、日本プロテスタント教会初期のリーダーの1人です。“Religion”を「宗教」と訳したのはこの人でした。
        小崎弘道が時代激変のさなか、南北戦争の軍人キャプテン・ジェーンズから洗礼を受けたのが、他の熊本バンドの人々から少し遅れていたという事実には、信仰の神秘があるように思います。弘道は、熊本藩士の子であり、武家として儒教を範として生きていた人でした。迫害を受けた熊本洋学校生徒が熊本城外花岡山で奉教趣意書に署名誓約した際、小崎はキリスト教を迫害する側にいたといいます。ナタナエルが、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」とフィリポの言葉に耳を貸さなかった心理状態と相通ずるものがあるようにも見えます。小崎は迫害者の立場にあったにもかかわらず、彼はなにゆえに迫害していた当のキリスト者となったのでしょうか。
     実は、ここに信仰の不思議な側面があるのです。
     使徒パウロもはじめはキリスト者を熱心に迫害していた人でした。パウロがダマスコという町へキリスト者を男女の区別無く捕縛し、痛めつけるために息を弾ませている途上、十字架で死んだはずのイエスが出現し「サウロ(パウロのこと)よ、サウロ、なぜあなたはわたしを迫害するのか」と問うたのです。光に打たれて三日間目が見えなくなった彼は、その出来事以来クリスチャンとなりました。新約聖書の多くの部分は彼が書いたものです。
     ナタナエルも主イエスに出会った瞬間からイエスの弟子となります。熱心なユダヤ教徒が瞬時に180度の方向転換をしたのです。思えば熱心な儒家であり、耶蘇教迫害者であった小崎弘道が180度の方向転換をなし、初代教会の指導者となっていったその原点には、主イエス御自身との出会いがナタナエル同様にあったのでしょう。

    9月の聖句によせて  フィリポは、「来て、見なさい」言った。

    • 2012.09.23 Sunday
    • 14:36
     ◆聖句によせて
     フィリポは、「来て、見なさい」言った。
                    ヨハネによる福音書1章46節
     キリスト教信仰を告白した明治期の人に熊本バンドの小崎弘道がいます。同志社社長(当時は総長と言わずに社長と呼びました)にもなった人で、YMCAを創設したり時代を牽引した『六合雑誌』を発行したり、日本プロテスタント教会初期のリーダーの1人です。“Religion”を「宗教」と訳したのはこの人でした。
        小崎弘道が時代激変のさなか、南北戦争の軍人キャプテン・ジェーンズから洗礼を受けたのが、他の熊本バンドの人々から少し遅れていたという事実には、信仰の神秘があるように思います。弘道は、熊本藩士の子であり、武家として儒教を範として生きていた人でした。迫害を受けた熊本洋学校生徒が熊本城外花岡山で奉教趣意書に署名誓約した際、小崎はキリスト教を迫害する側にいたといいます。ナタナエルが、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」とフィリポの言葉に耳を貸さなかった心理状態と相通ずるものがあるようにも見えます。小崎は迫害者の立場にあったにもかかわらず、彼はなにゆえに迫害していた当のキリスト者となったのでしょうか。
     実は、ここに信仰の不思議な側面があるのです。
     使徒パウロもはじめはキリスト者を熱心に迫害していた人でした。パウロがダマスコという町へキリスト者を男女の区別無く捕縛し、痛めつけるために息を弾ませている途上、十字架で死んだはずのイエスが出現し「サウロ(パウロのこと)よ、サウロ、なぜあなたはわたしを迫害するのか」と問うたのです。光に打たれて三日間目が見えなくなった彼は、その出来事以来クリスチャンとなりました。新約聖書の多くの部分は彼が書いたものです。
     ナタナエルも主イエスに出会った瞬間からイエスの弟子となります。熱心なユダヤ教徒が瞬時に180度の方向転換をしたのです。思えば熱心な儒家であり、耶蘇教迫害者であった小崎弘道が180度の方向転換をなし、初代教会の指導者となっていったその原点には、主イエス御自身との出会いがナタナエル同様にあったのでしょう。

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