「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」
マルコによる福音書4章27節
若い頃に庭仕事に興味をもたなかったのは何故なのだろうと時々思います。今は土をいじる時に何とも言えない幸福感を感じるので、この幸せをどうしてあの時代に感じられなかったのか不思議に思うのです。
もしかすると、土と離れた生活をしていたのかなとも思うのです。この年齢になってしみじみと思うのは、人の生活というのは、土にまみれる時間が必要なのではないかということです。種を植え、苗を植え、毎日観察していると、草花は雨が降る度にぐんぐん、陽光が照りつけるとぐいぐいと伸びてゆきます。そこはかとなく伝わる感動がこころにしみてきます。
「神さまが働いてくださっている」という思いは、わたしたちは「信仰」だとか「宗教」から来ていると漠然と思い込んでいます。けれども、種から芽が出て、ぐんぐんと茎を伸ばし、やがて花を咲かせ、実が実るという自然のありさまを観察するという行為はわたしたち人の態度としては、信仰とか宗教とか限らないものでしょう。科学的な態度はまず観察することから始まります。信仰とか科学とか区別する必要もない基本的な態度なのではないでしょうか。
主イエスは、「どうしてそうなるのか」という根源的なものを問う態度と、その答えについての「無知」の現実を語られました。「どうしてそうなるのか、その人は知らない」という現実です。「自分が知らない」という「無知の知」こそが「知」を愛することの初めだということはギリシャの哲学者(愛智者)も自覚していたことです。「無知の知」の自覚から、さらなる「知」(どうしてそうなるのか)へと探求してゆくことが科学の始まりでした。
「神さまが働いてくださっている」という、ひとつの答え方は、最終的な答えではなく最初の答えです。わたしたちの人智を超えた「働き」が働いているという答えは、最初の答えだからです。わたしたちが知り得ない事柄だけれども、たしかにその「力」が働いているからこそ、この「自然の成長」が眼前にある。これは最初の科学的知見でもありました。「自然の成長」という「結果」には、「神の力」という人智を超えた「原因」があるという推論がなされているからです。
古代人の科学の知見は、いまや現代のわたしたちにとっては「信仰内容」となりました。しかしそれは決して過去のものではありません。この知見は、「知の探求」を更に促し、感動を与え続けているのです。