◆聖句によせて
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 ヨハネによる福音書12章24節
むかしの日本では愛という言葉には、今とはたいそう違った意味がこめられていました。言葉は日に日に、それをつかう人によって意味が変化しているようです。
今をさかのぼる江戸時代、近松門左衛門作の人形浄瑠璃に『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)という作品があります。おさんという妻がいながら、遊女小春への恋に溺れた紙屋治兵衛が一旦は小春と別れたものの忘れる事が出来ず、ついには心中する、つまりは互いに殺害しあうという物語です。ここに描かれている「愛」や「恋」の世界は、行き着き先が哀しい結末になるような、そんな意味合いをもっていました。言うなれば、「おのれの想いを遂げる」ということなのではないでしょうか。
わたしたちの主イエスさまがお語りになられた「一粒の麦」の譬えも、「一粒の麦の死」を語ってはいます、がしかし、結末はおおいにちがっています。
近松の「愛」や「恋」の結末には、周囲の人々を不幸のどん底に追い落とすような無責任で自己中心的な死の世界が残っているだけですが、「一粒の麦の死」はやがて多くの実を結び、周囲の人々を幸せにします。同じ「死」でありながら正反対の意味となっています。
麦がこの譬えで、「死ぬ」という比喩で言い表されている内容は、麦から芽が伸び、根がはえてゆくという成長の過程を見ると、あたかも麦という個体が死んで、まったく新しい存在へ生まれ変わったように見えるということでしょう。それは陰惨な虚無を意味する「死」ではなく、生命感に満ちあふれた豊かな「実」「いのち」を指し示しています。
こう考えてゆくと、「一粒の麦の死」は、消滅を意味する「死」なのではなく、豊かな「収穫」をもたらすものとして受けとめるべき事柄なのだと思われてきます。
そうです。この「死」は、生命をもたらす「死」です。
主イエスさまは、十字架上で、御苦しみを受けられ、死なれましたが、主イエスさまは、実は、「死ぬことができるお方」なのでした。「死ぬことができる」というのは、復活されたもうたから、そのように語ることができるという意味です。私たちのあらゆる罪とがをご一身に引き受けられ、死にたもうことにより、私たちから「虚無の死」を取り除かれたのです。主イエスを信ずるものは、復活の命にあずかり、たとえ死んでも生きるのです。