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    2月 の 聖句によせて

    • 2012.01.28 Saturday
    • 17:43
     ◆聖句によせて
    「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」
                                         ヨハネによる福音書6章35節

     「飢え」には身体を維持、成長させるために必須の食物を渇望する「本能としての飢え」がありますが、主イエスさまがここで語られている表現は、もちろん比喩ですから、「本能としての飢え」のことではなく、人間が生き物として生きてゆくために必須なものでありながら、それは主イエスのもとにゆく者には再び味わうことのない「飢え」が指示されているものと考えられます。

     先日、埼玉県私立幼稚園連合主催の保育実践研修会に参加しました。発達障害のこどもとの関わりについての分科会での実践発表でした。変化に弱い自閉的傾向の強いこどもに対して、その子自身が変化を受け止めやすくするための指導のあり方がテーマでした。突然の状況の変化に遭遇してパニックを起こしてしまった時に、「大丈夫だよ。先生は味方だよ。助けてあげるよ。」という言葉かけをして心を落ち着かせるという実践報告がなされました。 

     わたしはその時、私たちならばどういう言葉かけをするだろうかととっさに思ったのです。「大丈夫だよ。」ここまでは同じです。「先生が味方で助けてあげる」という後半部分はきっと違ったものになる。
    「神さまが一緒にいてくださる。神さまはあなたがどこにいても必ずあなたを守ってくださる。」と言うと思いました。保育者はそのこどもが卒業してゆけば小学校の先生にバトンタッチしなければなりません。しかしこだわりの強いその子には固有な人格をもったその先生が必要なのです。先生がいないところではその子は不安の中におかれてしまうでしょう。その言葉かけにはそういう問題があると私は思いました。

     発達障害のこどもにとってだけでなく私たち自身も、目に見えない価値、手で触ることのできない存在に対する「飢え」「渇き」に対して鈍感になっているのではないでしょうか。しかし、魂に刻み込まれた神さまの「像(かたち)」(偶像のことではありません。主イエスさまのことです)がしっかりとあれば、その子どもはきっとどこへ行こうと、不安になることはない。偶像ではなく主イエスさまの像(かたち・イメージ)という確固とした生命の根源を心にもつことは「生きる力」をもつことなのではないかと思うのです。

    2月 の 聖句によせて

    • 2012.01.28 Saturday
    • 17:43
     ◆聖句によせて
    「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」
                                         ヨハネによる福音書6章35節

     「飢え」には身体を維持、成長させるために必須の食物を渇望する「本能としての飢え」がありますが、主イエスさまがここで語られている表現は、もちろん比喩ですから、「本能としての飢え」のことではなく、人間が生き物として生きてゆくために必須なものでありながら、それは主イエスのもとにゆく者には再び味わうことのない「飢え」が指示されているものと考えられます。

     先日、埼玉県私立幼稚園連合主催の保育実践研修会に参加しました。発達障害のこどもとの関わりについての分科会での実践発表でした。変化に弱い自閉的傾向の強いこどもに対して、その子自身が変化を受け止めやすくするための指導のあり方がテーマでした。突然の状況の変化に遭遇してパニックを起こしてしまった時に、「大丈夫だよ。先生は味方だよ。助けてあげるよ。」という言葉かけをして心を落ち着かせるという実践報告がなされました。 

     わたしはその時、私たちならばどういう言葉かけをするだろうかととっさに思ったのです。「大丈夫だよ。」ここまでは同じです。「先生が味方で助けてあげる」という後半部分はきっと違ったものになる。
    「神さまが一緒にいてくださる。神さまはあなたがどこにいても必ずあなたを守ってくださる。」と言うと思いました。保育者はそのこどもが卒業してゆけば小学校の先生にバトンタッチしなければなりません。しかしこだわりの強いその子には固有な人格をもったその先生が必要なのです。先生がいないところではその子は不安の中におかれてしまうでしょう。その言葉かけにはそういう問題があると私は思いました。

     発達障害のこどもにとってだけでなく私たち自身も、目に見えない価値、手で触ることのできない存在に対する「飢え」「渇き」に対して鈍感になっているのではないでしょうか。しかし、魂に刻み込まれた神さまの「像(かたち)」(偶像のことではありません。主イエスさまのことです)がしっかりとあれば、その子どもはきっとどこへ行こうと、不安になることはない。偶像ではなく主イエスさまの像(かたち・イメージ)という確固とした生命の根源を心にもつことは「生きる力」をもつことなのではないかと思うのです。

    2012年1月 聖句によせて

    • 2012.01.06 Friday
    • 21:32

    ◆聖句によせて「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」          エフェソの信徒への手紙3章7節
     キリスト者の人生はキリスト・イエスというお方、まことの神がまことの人となられたお方が自分自身の人格の中核に存在していると信ずる信仰によって、支えられています。

     そういう意味で、自己実現としての人生なのではなく、創造者なる神さまが自分自身に対して授けてくださった人生を、神さま御自身と共に生きるのです。
     
     幼児期に、自分自身が宇宙に放り出された孤独な存在なのではなく、自分自身を存在へと呼び出し、世界と隣人と共に生き、そのなかで創造者の愛に包まれて、愛し、愛されるという喜びを実現する「共に生きる存在」であることを体感することが、宗教的な情操教育の本質です。
     
     無条件に愛されているという確信を幼児期にもつことは人生最大の幸福でしょう。そのような確信に満ちている人は、砂漠のなかでも、宇宙空間でも、生死の恐怖を超える安心感をもって、事態に臨むことができるでしょう。

     このような「基本的信頼」を土台にして、大木のような強健な人格を育てる、そのためには小さなことへの忠実な集中力を養うことが必要です。

     その必要は誰よりも、神さまから与えられた自分自身の内奥から湧出するものなのです。

     人格の内奥に住むキリストの声に従い、あらゆる必要なものを、旺盛な興味・関心をもって自分自身を訓練する能力、「敏感期」には子どもの示す興味・関心は絶大な吸収力を発揮します。
     
     わたしたちには、大人の視点から大人の願望・欲求を押しつけるのではなく、大人自身が成熟した見守り人、観察者、洞察者となって、子どもが今何を必要としているかを敏感に読み取り、必要な環境を整えることが要求されます。
     
     むしろ、わたしたち大人が成熟した成長し続ける人になることが必要なのではないでしょうか。

     大切な幼児期を共に過ごせる貴重な時間は多くはありません。過ぎ去ってみればあっという間の時間です。

     この時期、子どもたちはものすごい勢いで成長していますから、時間がとても遅く流れ、長く感じています。園舎も教会も巨大な宇宙です。

     この貴重な時を、祈りをもって私たちも共に過ごしましょう。  わたしたちは保護者のみなさまと共に成長してゆきたいと願っています。こどもの世界に飛び込んできてください。

    2012年1月 聖句によせて

    • 2012.01.06 Friday
    • 21:32

    ◆聖句によせて「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」          エフェソの信徒への手紙3章7節
     キリスト者の人生はキリスト・イエスというお方、まことの神がまことの人となられたお方が自分自身の人格の中核に存在していると信ずる信仰によって、支えられています。

     そういう意味で、自己実現としての人生なのではなく、創造者なる神さまが自分自身に対して授けてくださった人生を、神さま御自身と共に生きるのです。
     
     幼児期に、自分自身が宇宙に放り出された孤独な存在なのではなく、自分自身を存在へと呼び出し、世界と隣人と共に生き、そのなかで創造者の愛に包まれて、愛し、愛されるという喜びを実現する「共に生きる存在」であることを体感することが、宗教的な情操教育の本質です。
     
     無条件に愛されているという確信を幼児期にもつことは人生最大の幸福でしょう。そのような確信に満ちている人は、砂漠のなかでも、宇宙空間でも、生死の恐怖を超える安心感をもって、事態に臨むことができるでしょう。

     このような「基本的信頼」を土台にして、大木のような強健な人格を育てる、そのためには小さなことへの忠実な集中力を養うことが必要です。

     その必要は誰よりも、神さまから与えられた自分自身の内奥から湧出するものなのです。

     人格の内奥に住むキリストの声に従い、あらゆる必要なものを、旺盛な興味・関心をもって自分自身を訓練する能力、「敏感期」には子どもの示す興味・関心は絶大な吸収力を発揮します。
     
     わたしたちには、大人の視点から大人の願望・欲求を押しつけるのではなく、大人自身が成熟した見守り人、観察者、洞察者となって、子どもが今何を必要としているかを敏感に読み取り、必要な環境を整えることが要求されます。
     
     むしろ、わたしたち大人が成熟した成長し続ける人になることが必要なのではないでしょうか。

     大切な幼児期を共に過ごせる貴重な時間は多くはありません。過ぎ去ってみればあっという間の時間です。

     この時期、子どもたちはものすごい勢いで成長していますから、時間がとても遅く流れ、長く感じています。園舎も教会も巨大な宇宙です。

     この貴重な時を、祈りをもって私たちも共に過ごしましょう。  わたしたちは保護者のみなさまと共に成長してゆきたいと願っています。こどもの世界に飛び込んできてください。

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