◆聖句によせて
「主よ、・・・・わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
マタイによる福音書14章28節
一言で「信仰」ということはどういうことなのでしょうか。
湖の上を歩く主イエスを目撃したお弟子さん(ペトロ)は、自分にはできそうにない「水上歩行」という「奇跡」を、「イエス様が自分に命令してくれさえしたら、自分にもできるかもしれない」ととっさに考えたようです。
「主よ、・・・・わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」とお願いしています。
たしかに、このお弟子さんは、イエス様には、「奇跡」を行う神の力があり、その力をお弟子さんに授与することもできるという「信仰」はあったと言えるでしょう。
そして、実際に彼の願いは主イエスに聴かれて、主イエス様は「来なさい」とお命じになりました。
そして彼は、いくらか湖の上を歩くことに成功しているように見えます。
彼はなんと湖上をいくらかでも歩いたのです!「奇跡」は確かに起こっています。
そういう意味で、このお弟子さんにはたしかに「信仰」があったと、考えるべきでしょう。
ただ、気になるのは、すぐに、「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」(4:30)という具合に、「怖く」なってしまい、おぼれかけてしまうのです。
おそらく一瞬の疑念だったのではないでしょうか。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。」(14:31 )イエス様は、この彼の瞬間の疑念を惜しまれています。
このエピソードを読むと「信仰」という事柄が、ほんの一瞬の疑念で、失われてしまうものなのかと、ものすごく緊張してしまいますね。なにしろ主イエスへの信頼が一瞬でも疑いに変わると溺れてしまうのですから。しかし幸いなことに、主イエスが「すぐに手を伸ばして捕まえて」くださった!ホッとしました。
この出来事からふたつの事が見えてくるのではないでしょうか。
第一には、「信仰」はほんのひとかけらの疑いもない、混じりけのない絶対的な信頼だということです。
第二には、たとえ、わたしたちが「懐疑」によって信仰を失いかけても、主イエスは手を伸ばして捕らえ」てくださるということです。
疵のない信頼・信仰を主イエスにに向かって告白できる者になりたいと切に願います。