「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。・・・・信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 ヨハネによる福音書20章27節
主イエス・キリストは復活された御身体をお示しになり、信じる者となるように勧めてくださいました。
わたしたちは、視覚的なイメージ(像)に依り頼んで、信頼性の「ものさし」にしているという局面が多いのではないでしょうか。
けれども現実には「人はみかけによらない」という事実も多く、「詐欺師」が横行するのも、見かけ、外観だけで人を信用してしまうことによるところがあるように思います。元来、人を信じること、神さまを信じることは、素直な心の持ち主だという意味では、決して悪い性質であった訳ではないはずです。ところが、見かけによらず、どうみても善人に見える人が実際には詐欺師であったりするものですから、安易に人を信用しないようになどという教育をわざわざ施さねばならなくなっています。
主イエスは、復活の御身体をお示しになりましたが、その提示は本来は必要のないことだと諭してくださいました。
「見ないで信じる者は幸いである」と述べられ、見ることによって信じる危うさに気付くべきだと教えてくださっています。わたしたちは二千年前にもどって、復活の御身体の提示の場面に居合わせることは不可能ですから、見ることは実際不可能なのです。「あなた方は見るには見るが見ない」と主イエスは言われました。皮膚感覚的な意味で見ることが、主イエスを真実に見ることとイコールではないということを知らしめるためでした。
大切なことは、見たから信じるという過程で信じるとしたら、それは真実なイエスを信じたのではなく、自分の視力や認識力を信じているにすぎず、真正な神との出会いをしたことにはならないのだということなのです。
見えるということの危うさ、見て信ずることの脆さをわたしたちは、主の言葉によって知らされます。
信じるということは、実はとても困難なこと、人の世界にあっては困難なことなのだよと、主は諭しておられるのです。その困難さを知ることからはじめて、あえて信じる者となるという意志的な生き方を主イエスは勧めているのではないでしょうか。
「信じる」という営みは「責任を担う」という仕方でなされる事柄なのだ、と私には思えてなりません。
たとえば、ある人から保証人になってほしいと依頼されたという場面を想定してみたらよくわかります。その人を信じるという事には、大きな責任や重荷を将来にわたって負うという覚悟が必要でしょう。
「信じる者となる」ということはいたずらに、やみくもに「すぐ信じる」という意味ではなく、信じることによって、重荷を引き受けるという犠牲への覚悟を伴うものだということなのです。
朝に真理を聞いたとすれば、夕べには死んでもかまわないと中国の賢者は言いました。真実への切実な思いが伝わってきます。
「信じないものではなく、信じる者になりなさい」という主の言葉には、愛を貫くためには、犠牲を引き受ける意思が根底になければならない。
「あなたはその重荷を引き受ける覚悟があるか」と、イエス・キリストから言われているように感じています。