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    ◆6月聖句によせて

    • 2011.06.02 Thursday
    • 16:23

     ◆6月聖句によせて
      あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 
                      マタイによる福音書7章11節
     信仰とは信頼のことです。天地を創造された神さまが、求める者には必ず良きものを与えてくださるという信頼を持ちうる人は幸いです。つまり「幸福」です。
       いつも不満ばかりで額には皺を寄せて怒ってばかりの人をみます。そういう人は責任を常に自分以外の誰かに負わせているので、常に自分が不幸なのは不幸にさせた誰かのせいだと決めつけます。つまり信頼がないのです。信仰がないのです。
     信頼で満ちている人は自分が逆境にあるときも、その逆境は神さまが今の自分に必要な訓練と考えます。「この問題を解決できると神さまはこのわたしを信じているからこそ、この問題を私に与えてくださったのだ。私は神さまの信頼に応えて神さまに喜ばれたい。」信頼の人はこう考えます。そしてどんな逆境も自分の肥やしにしてしまうのです。
     ところが、自分が今おかれている逆境は、他の誰かのせいでこうなったと決めつけている人は自分の責任を回避し、自覚しようとしません。けれども責任という事柄は自分がそれを自覚しなくても、それとは関係なく存在します。だから責任をとらない人は、そのことによって多くの人々から信頼されません。
     信仰という信頼を大切に育む人とそうでない人には大きな違いが表れてきます。信頼は責任をとるという態度に、不信感は責任回避という態度に表出します。
     責任のとりかたは人によって様々な意匠があります。山本周五郎の『樅の木は残った』という小説があります。主人公原田甲斐は伊達騒動において悪人中の悪人と描かれていましたが、周五郎は、実は原田甲斐こそ「汚名を一身に集結させて、藩を守り、藩士や民の生活を守りきったもののふ」として描きました。この責任のとりかたを「犠牲」といいます。誰に知られずとも、ただ天の神だけは自分の決意を知っていてくださる、それでいいのだという絶対者との信頼関係こそが、この生き方を支えている、とキリスト者山本周五郎は伝えたかったことではないか、私はそう思っています。



     

    ◆6月聖句によせて

    • 2011.06.02 Thursday
    • 16:23

     ◆6月聖句によせて
      あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 
                      マタイによる福音書7章11節
     信仰とは信頼のことです。天地を創造された神さまが、求める者には必ず良きものを与えてくださるという信頼を持ちうる人は幸いです。つまり「幸福」です。
       いつも不満ばかりで額には皺を寄せて怒ってばかりの人をみます。そういう人は責任を常に自分以外の誰かに負わせているので、常に自分が不幸なのは不幸にさせた誰かのせいだと決めつけます。つまり信頼がないのです。信仰がないのです。
     信頼で満ちている人は自分が逆境にあるときも、その逆境は神さまが今の自分に必要な訓練と考えます。「この問題を解決できると神さまはこのわたしを信じているからこそ、この問題を私に与えてくださったのだ。私は神さまの信頼に応えて神さまに喜ばれたい。」信頼の人はこう考えます。そしてどんな逆境も自分の肥やしにしてしまうのです。
     ところが、自分が今おかれている逆境は、他の誰かのせいでこうなったと決めつけている人は自分の責任を回避し、自覚しようとしません。けれども責任という事柄は自分がそれを自覚しなくても、それとは関係なく存在します。だから責任をとらない人は、そのことによって多くの人々から信頼されません。
     信仰という信頼を大切に育む人とそうでない人には大きな違いが表れてきます。信頼は責任をとるという態度に、不信感は責任回避という態度に表出します。
     責任のとりかたは人によって様々な意匠があります。山本周五郎の『樅の木は残った』という小説があります。主人公原田甲斐は伊達騒動において悪人中の悪人と描かれていましたが、周五郎は、実は原田甲斐こそ「汚名を一身に集結させて、藩を守り、藩士や民の生活を守りきったもののふ」として描きました。この責任のとりかたを「犠牲」といいます。誰に知られずとも、ただ天の神だけは自分の決意を知っていてくださる、それでいいのだという絶対者との信頼関係こそが、この生き方を支えている、とキリスト者山本周五郎は伝えたかったことではないか、私はそう思っています。


     

    ◆主題聖句によせて 5月

    • 2011.06.02 Thursday
    • 15:36
     ◆主題聖句によせて
     「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
                     ヨハネによる福音書10章11節
     主イエスはご自分を、「良い羊飼い」だと言われました。そして「良い羊飼い」は羊のための「命を捨てる」とも言われたのです。これは「羊のために命を捨てる羊飼いは良い羊飼いだ」と言うことなのでしょうか。はたしてそういうことなのでしょうか。
     羊は、二千年前のパレスチナの人々にとっては大切な財産でした。食料である乳を供給し、衣服やテントの材料である羊毛も羊に頼っていました。羊飼いはすべての羊の個性を熟知しており、鳴き声ひとつで聞きわけることができました。羊の方でも羊飼いの声を知っていて飼い主の声だけに従います。羊飼いは昼も夜も羊と一緒に暮らし、出産や移動には責任をもち、野獣から守ります。言ってみれば羊飼いはみな羊にとっては「良い」存在でなければ「羊飼い」の仕事はつとまらないのです。羊飼いはすべからく、みな「良い」のです。
     しかし、自分の命をとるか羊の命をとるかという選択に迫られたとしたらどうでしょう。狼やライオンなどの野獣から羊を守る羊飼いが、仮に命をかけて闘ったとしても、それは必ず打ち勝つ自信と勇気があるからでしょう。それらは自分の命を「捨てる」ということではないはずです。
     つまり、「良い羊飼い」であっても、羊飼いは羊のために「命を捨てる」ことはしないものです。羊を守ることは自分の生活を守るためであって、「命を捨てる」こととは違います。けれども主イエスは、「命を捨てる」とはっきりと言われました。そのお言葉にご自分のためではなく、ただ「羊のため」という目的が明らかにされています。
     まことの神であり、まことの人でありたもう主イエスだけが、「わたしたち=羊」のためだけに、ご自分の命を捨てることがおできになるお方ではないでしょうか。普通の「良い羊飼い」が「命を捨てる」ことはありません。彼らには「命を捨てる」ことは不可能なのです。真実の意味で、「自分の命を捨てる」ことが可能なお方は、神人でありたもうお方だけなのです。この方の命の代償によって、わたしたちの命が生まれ変わり、救われるのです。

    ◆主題聖句によせて 5月

    • 2011.06.02 Thursday
    • 15:36
     ◆主題聖句によせて
     「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
                     ヨハネによる福音書10章11節
     主イエスはご自分を、「良い羊飼い」だと言われました。そして「良い羊飼い」は羊のための「命を捨てる」とも言われたのです。これは「羊のために命を捨てる羊飼いは良い羊飼いだ」と言うことなのでしょうか。はたしてそういうことなのでしょうか。
     羊は、二千年前のパレスチナの人々にとっては大切な財産でした。食料である乳を供給し、衣服やテントの材料である羊毛も羊に頼っていました。羊飼いはすべての羊の個性を熟知しており、鳴き声ひとつで聞きわけることができました。羊の方でも羊飼いの声を知っていて飼い主の声だけに従います。羊飼いは昼も夜も羊と一緒に暮らし、出産や移動には責任をもち、野獣から守ります。言ってみれば羊飼いはみな羊にとっては「良い」存在でなければ「羊飼い」の仕事はつとまらないのです。羊飼いはすべからく、みな「良い」のです。
     しかし、自分の命をとるか羊の命をとるかという選択に迫られたとしたらどうでしょう。狼やライオンなどの野獣から羊を守る羊飼いが、仮に命をかけて闘ったとしても、それは必ず打ち勝つ自信と勇気があるからでしょう。それらは自分の命を「捨てる」ということではないはずです。
     つまり、「良い羊飼い」であっても、羊飼いは羊のために「命を捨てる」ことはしないものです。羊を守ることは自分の生活を守るためであって、「命を捨てる」こととは違います。けれども主イエスは、「命を捨てる」とはっきりと言われました。そのお言葉にご自分のためではなく、ただ「羊のため」という目的が明らかにされています。
     まことの神であり、まことの人でありたもう主イエスだけが、「わたしたち=羊」のためだけに、ご自分の命を捨てることがおできになるお方ではないでしょうか。普通の「良い羊飼い」が「命を捨てる」ことはありません。彼らには「命を捨てる」ことは不可能なのです。真実の意味で、「自分の命を捨てる」ことが可能なお方は、神人でありたもうお方だけなのです。この方の命の代償によって、わたしたちの命が生まれ変わり、救われるのです。

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