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- 2019.03.19 Tuesday
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★8月の聖句によせて イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。
ルカによる福音書4章40節
福音書記者ルカが記録した、この主イエス・キリストによる癒しの出来事は、薬とか、暗示とかによるものではありません。主イエスが手を置いたことによって癒されたのです。不思議なことが起きたものです。報告しているルカ自身も驚きつつ報告しているのではないかと思われます。
ルカは医者であったと言われていますから、この因果律を超えた非合理的な事件に驚いていたのではないかと思われます。科学的知見では説明がつかない出来事でも、主イエスが神の独り子なる神であらせられるとすれば、説明がつく、この出来事に、記録・報告者ルカ自身がもうその出来事の一部と化しています。
ルカが注目していたのは、イエスさまが「ひとりひとりに」向き合っておられたという主イエスの関わり方であったようです。大勢の人々を前にひとくくりに関わろうとされたのではなく、それぞれの人に、それぞれの関わり方をされたという事態に、ルカは関心を向けています。わたしたちひとりひとりに対して、固有な(そのものだけにあること)関わりをしてくださるのだということが短い報告から伝わってきます。
主イエスがそうでありたまうがゆえに、キリスト教保育は、「ひとくくりの教育」ではなく、固有な関わりを志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)します。「ひとくくりにする」のは、こどもに対して、知識のような何かを教え込もうとするからです。小学校に入れば、そういう教育が待っています。それは教科教育には必要なことでもあるのです。
けれども教育は、教師とこどもの信頼関係によってこそ、豊かな実を結びます。「ひとりひとりに向き合う」教育を親も学校も一緒になって、それぞれの立場で、懸命に祈り求めてゆくべきではないでしょうか。
ホザナ幼稚園に集うすべてのこどもたちは、神さまから預かったこどもたちです。親御さんが神さまという意味ではありません。ひとりひとりの存在が、神さまによって創造されているという確信のことを言っています。わたしたちは神さまからお預かりしたこどもたちを神さまの願いのように育みたい、この一念で働いています。
奇跡は起こります。
主イエスが奇跡をを起こしてくださるのです。わたしたちにはできなくても、神さまにできないことは何一つありません。主イエスが「手を置いた」一人ひとりは癒されました。癒しがたい事であっても、そこに癒しが起きた事実を医者であるルカは報告しているのです。彼自身の驚きが込められています。
お子さまと、こころをこめて、祈りつつ、向き合ってみませんか。
お子さまの記憶に、「優しい母(父)」、「見つめてくれる母(父)」、「本を読んでくれる母(父)」、「おいしいご飯をつくってくれた母(父)」、「いっしょに遊んでくれた母(父)」が刻まれてゆくことでしょう。それは、必ずお子さまの宝になります。よりどころになります。癒しになります。
お子さまが、将来、何かのトラブルにまきこまれたとき、失敗したとき、お子さまの思い出のなかに潜んでいる、優しい母や父の見守るまなざしの記憶から、泉のように湧き出る「生きる力」をくみ出すことができるでしょう。主イエスさまの奇跡は10年後、20年後に明らかになるでしょう。
いま、わたしたちが、こどもたちに向ける、優しさ、厳しさ、愛情、適切な関わり方が、ひとりひとりのこどもたちの10年後、20年後の将来に、「生きる力」となって立ち現れてくるでしょう。
今、わたしたちはその礎を育んでいるのです。このことを忘れないようにいたしましょう。
★8月の聖句によせて イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。
ルカによる福音書4章40節
福音書記者ルカが記録した、この主イエス・キリストによる癒しの出来事は、薬とか、暗示とかによるものではありません。主イエスが手を置いたことによって癒されたのです。不思議なことが起きたものです。報告しているルカ自身も驚きつつ報告しているのではないかと思われます。
ルカは医者であったと言われていますから、この因果律を超えた非合理的な事件に驚いていたのではないかと思われます。科学的知見では説明がつかない出来事でも、主イエスが神の独り子なる神であらせられるとすれば、説明がつく、この出来事に、記録・報告者ルカ自身がもうその出来事の一部と化しています。
ルカが注目していたのは、イエスさまが「ひとりひとりに」向き合っておられたという主イエスの関わり方であったようです。大勢の人々を前にひとくくりに関わろうとされたのではなく、それぞれの人に、それぞれの関わり方をされたという事態に、ルカは関心を向けています。わたしたちひとりひとりに対して、固有な(そのものだけにあること)関わりをしてくださるのだということが短い報告から伝わってきます。
主イエスがそうでありたまうがゆえに、キリスト教保育は、「ひとくくりの教育」ではなく、固有な関わりを志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)します。「ひとくくりにする」のは、こどもに対して、知識のような何かを教え込もうとするからです。小学校に入れば、そういう教育が待っています。それは教科教育には必要なことでもあるのです。
けれども教育は、教師とこどもの信頼関係によってこそ、豊かな実を結びます。「ひとりひとりに向き合う」教育を親も学校も一緒になって、それぞれの立場で、懸命に祈り求めてゆくべきではないでしょうか。
ホザナ幼稚園に集うすべてのこどもたちは、神さまから預かったこどもたちです。親御さんが神さまという意味ではありません。ひとりひとりの存在が、神さまによって創造されているという確信のことを言っています。わたしたちは神さまからお預かりしたこどもたちを神さまの願いのように育みたい、この一念で働いています。
奇跡は起こります。
主イエスが奇跡をを起こしてくださるのです。わたしたちにはできなくても、神さまにできないことは何一つありません。主イエスが「手を置いた」一人ひとりは癒されました。癒しがたい事であっても、そこに癒しが起きた事実を医者であるルカは報告しているのです。彼自身の驚きが込められています。
お子さまと、こころをこめて、祈りつつ、向き合ってみませんか。
お子さまの記憶に、「優しい母(父)」、「見つめてくれる母(父)」、「本を読んでくれる母(父)」、「おいしいご飯をつくってくれた母(父)」、「いっしょに遊んでくれた母(父)」が刻まれてゆくことでしょう。それは、必ずお子さまの宝になります。よりどころになります。癒しになります。
お子さまが、将来、何かのトラブルにまきこまれたとき、失敗したとき、お子さまの思い出のなかに潜んでいる、優しい母や父の見守るまなざしの記憶から、泉のように湧き出る「生きる力」をくみ出すことができるでしょう。主イエスさまの奇跡は10年後、20年後に明らかになるでしょう。
いま、わたしたちが、こどもたちに向ける、優しさ、厳しさ、愛情、適切な関わり方が、ひとりひとりのこどもたちの10年後、20年後の将来に、「生きる力」となって立ち現れてくるでしょう。
今、わたしたちはその礎を育んでいるのです。このことを忘れないようにいたしましょう。
★8月の聖句によせて イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。
ルカによる福音書4章40節
福音書記者ルカが記録した、この主イエス・キリストによる癒しの出来事は、薬とか、暗示とかによるものではありません。主イエスが手を置いたことによって癒されたのです。不思議なことが起きたものです。報告しているルカ自身も驚きつつ報告しているのではないかと思われます。
ルカは医者であったと言われていますから、この因果律を超えた非合理的な事件に驚いていたのではないかと思われます。科学的知見では説明がつかない出来事でも、主イエスが神の独り子なる神であらせられるとすれば、説明がつく、この出来事に、記録・報告者ルカ自身がもうその出来事の一部と化しています。
ルカが注目していたのは、イエスさまが「ひとりひとりに」向き合っておられたという主イエスの関わり方であったようです。大勢の人々を前にひとくくりに関わろうとされたのではなく、それぞれの人に、それぞれの関わり方をされたという事態に、ルカは関心を向けています。わたしたちひとりひとりに対して、固有な(そのものだけにあること)関わりをしてくださるのだということが短い報告から伝わってきます。
主イエスがそうでありたまうがゆえに、キリスト教保育は、「ひとくくりの教育」ではなく、固有な関わりを志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)します。「ひとくくりにする」のは、こどもに対して、知識のような何かを教え込もうとするからです。小学校に入れば、そういう教育が待っています。それは教科教育には必要なことでもあるのです。
けれども教育は、教師とこどもの信頼関係によってこそ、豊かな実を結びます。「ひとりひとりに向き合う」教育を親も学校も一緒になって、それぞれの立場で、懸命に祈り求めてゆくべきではないでしょうか。
ホザナ幼稚園に集うすべてのこどもたちは、神さまから預かったこどもたちです。親御さんが神さまという意味ではありません。ひとりひとりの存在が、神さまによって創造されているという確信のことを言っています。わたしたちは神さまからお預かりしたこどもたちを神さまの願いのように育みたい、この一念で働いています。
奇跡は起こります。
主イエスが奇跡をを起こしてくださるのです。わたしたちにはできなくても、神さまにできないことは何一つありません。主イエスが「手を置いた」一人ひとりは癒されました。癒しがたい事であっても、そこに癒しが起きた事実を医者であるルカは報告しているのです。彼自身の驚きが込められています。
お子さまと、こころをこめて、祈りつつ、向き合ってみませんか。
お子さまの記憶に、「優しい母(父)」、「見つめてくれる母(父)」、「本を読んでくれる母(父)」、「おいしいご飯をつくってくれた母(父)」、「いっしょに遊んでくれた母(父)」が刻まれてゆくことでしょう。それは、必ずお子さまの宝になります。よりどころになります。癒しになります。
お子さまが、将来、何かのトラブルにまきこまれたとき、失敗したとき、お子さまの思い出のなかに潜んでいる、優しい母や父の見守るまなざしの記憶から、泉のように湧き出る「生きる力」をくみ出すことができるでしょう。主イエスさまの奇跡は10年後、20年後に明らかになるでしょう。
いま、わたしたちが、こどもたちに向ける、優しさ、厳しさ、愛情、適切な関わり方が、ひとりひとりのこどもたちの10年後、20年後の将来に、「生きる力」となって立ち現れてくるでしょう。
今、わたしたちはその礎を育んでいるのです。このことを忘れないようにいたしましょう。
★8月の聖句によせて イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。
ルカによる福音書4章40節
福音書記者ルカが記録した、この主イエス・キリストによる癒しの出来事は、薬とか、暗示とかによるものではありません。主イエスが手を置いたことによって癒されたのです。不思議なことが起きたものです。報告しているルカ自身も驚きつつ報告しているのではないかと思われます。
ルカは医者であったと言われていますから、この因果律を超えた非合理的な事件に驚いていたのではないかと思われます。科学的知見では説明がつかない出来事でも、主イエスが神の独り子なる神であらせられるとすれば、説明がつく、この出来事に、記録・報告者ルカ自身がもうその出来事の一部と化しています。
ルカが注目していたのは、イエスさまが「ひとりひとりに」向き合っておられたという主イエスの関わり方であったようです。大勢の人々を前にひとくくりに関わろうとされたのではなく、それぞれの人に、それぞれの関わり方をされたという事態に、ルカは関心を向けています。わたしたちひとりひとりに対して、固有な(そのものだけにあること)関わりをしてくださるのだということが短い報告から伝わってきます。
主イエスがそうでありたまうがゆえに、キリスト教保育は、「ひとくくりの教育」ではなく、固有な関わりを志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)します。「ひとくくりにする」のは、こどもに対して、知識のような何かを教え込もうとするからです。小学校に入れば、そういう教育が待っています。それは教科教育には必要なことでもあるのです。
けれども教育は、教師とこどもの信頼関係によってこそ、豊かな実を結びます。「ひとりひとりに向き合う」教育を親も学校も一緒になって、それぞれの立場で、懸命に祈り求めてゆくべきではないでしょうか。
ホザナ幼稚園に集うすべてのこどもたちは、神さまから預かったこどもたちです。親御さんが神さまという意味ではありません。ひとりひとりの存在が、神さまによって創造されているという確信のことを言っています。わたしたちは神さまからお預かりしたこどもたちを神さまの願いのように育みたい、この一念で働いています。
奇跡は起こります。
主イエスが奇跡をを起こしてくださるのです。わたしたちにはできなくても、神さまにできないことは何一つありません。主イエスが「手を置いた」一人ひとりは癒されました。癒しがたい事であっても、そこに癒しが起きた事実を医者であるルカは報告しているのです。彼自身の驚きが込められています。
お子さまと、こころをこめて、祈りつつ、向き合ってみませんか。
お子さまの記憶に、「優しい母(父)」、「見つめてくれる母(父)」、「本を読んでくれる母(父)」、「おいしいご飯をつくってくれた母(父)」、「いっしょに遊んでくれた母(父)」が刻まれてゆくことでしょう。それは、必ずお子さまの宝になります。よりどころになります。癒しになります。
お子さまが、将来、何かのトラブルにまきこまれたとき、失敗したとき、お子さまの思い出のなかに潜んでいる、優しい母や父の見守るまなざしの記憶から、泉のように湧き出る「生きる力」をくみ出すことができるでしょう。主イエスさまの奇跡は10年後、20年後に明らかになるでしょう。
いま、わたしたちが、こどもたちに向ける、優しさ、厳しさ、愛情、適切な関わり方が、ひとりひとりのこどもたちの10年後、20年後の将来に、「生きる力」となって立ち現れてくるでしょう。
今、わたしたちはその礎を育んでいるのです。このことを忘れないようにいたしましょう。