スポンサーサイト

  • 2019.03.19 Tuesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -
    • -

    11月の聖句によせて 「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてください。」

    • 2010.10.29 Friday
    • 18:56
    「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてください。」
                                     エフェソの信徒への手紙3章17節
     「愛される体験」を豊かに味わうことが、幼児期にはもっともたいせつな課題です。不幸にして愛を注ぐべき保護者に恵まれない境遇にあっても、目には見えない愛するお方が確かに存在していると確信できるならば、その確信、信念によって、そのこどもは「確かに愛された者としての体験」を味わうことができるでしょう。ディケンズの『オリバー・ツイスト』は見事にそのことを伝えています。
     ところが、溢れるほどの愛を受けていても、「自分は愛されていないという観念」を植えつけられた子どもは、豊かな境遇にあっても、愛された体験を味わうことができないかもしれません。だからこそ、幼児期から、「あなたは愛されているのですよ」というメッセージを、浴びるほどに受けて、こどもの幼い魂に、「ぼくは愛されているんだ。わたしは愛されている。」という確信を堅くもつことが、こよなく大切なことなのです。
     愛された体験は、かならず愛する体験へと実を結んでゆきます。やさしい眼差しでみつめられ、毅然とした愛によって、善悪の判断を示されたこともは、やがて、優しい目をもつこともに成長してゆきます。そして毅然として善悪を峻別するようになるでしょう。
     「愛に根ざす」という表現は、植物の根っこが地中深く根をはってゆく有り様の比喩でしょう。そして、そのとき、「愛」は豊穣な「土壌」を指しているのでしょう。そうだとすれば、その土壌を豊かに保つことが「愛に根ざす」ということには必要になります。豊かな土壌作りを、こどもたちはしています。こどもたちの魂に豊かな栄養素や水を注いでゆくことが私たち大人の責任です。育てることに喜びを感じながら、わたしたち自身が生まれ変わってゆきます。
     愛に根ざし、しっかりと地面をつかんで立つ豊かな樹木のようなこどもたち。その枝に咲く花をみてわたしたち大人も喜びに満たされます。子育てという大きな人生の「お仕事」をこどもたちと共に味わいましょう。

    11月の聖句によせて 「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてください。」

    • 2010.10.29 Friday
    • 18:56
    「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてください。」
                                     エフェソの信徒への手紙3章17節
     「愛される体験」を豊かに味わうことが、幼児期にはもっともたいせつな課題です。不幸にして愛を注ぐべき保護者に恵まれない境遇にあっても、目には見えない愛するお方が確かに存在していると確信できるならば、その確信、信念によって、そのこどもは「確かに愛された者としての体験」を味わうことができるでしょう。ディケンズの『オリバー・ツイスト』は見事にそのことを伝えています。
     ところが、溢れるほどの愛を受けていても、「自分は愛されていないという観念」を植えつけられた子どもは、豊かな境遇にあっても、愛された体験を味わうことができないかもしれません。だからこそ、幼児期から、「あなたは愛されているのですよ」というメッセージを、浴びるほどに受けて、こどもの幼い魂に、「ぼくは愛されているんだ。わたしは愛されている。」という確信を堅くもつことが、こよなく大切なことなのです。
     愛された体験は、かならず愛する体験へと実を結んでゆきます。やさしい眼差しでみつめられ、毅然とした愛によって、善悪の判断を示されたこともは、やがて、優しい目をもつこともに成長してゆきます。そして毅然として善悪を峻別するようになるでしょう。
     「愛に根ざす」という表現は、植物の根っこが地中深く根をはってゆく有り様の比喩でしょう。そして、そのとき、「愛」は豊穣な「土壌」を指しているのでしょう。そうだとすれば、その土壌を豊かに保つことが「愛に根ざす」ということには必要になります。豊かな土壌作りを、こどもたちはしています。こどもたちの魂に豊かな栄養素や水を注いでゆくことが私たち大人の責任です。育てることに喜びを感じながら、わたしたち自身が生まれ変わってゆきます。
     愛に根ざし、しっかりと地面をつかんで立つ豊かな樹木のようなこどもたち。その枝に咲く花をみてわたしたち大人も喜びに満たされます。子育てという大きな人生の「お仕事」をこどもたちと共に味わいましょう。

    ◆10月の聖句によせて   「空の鳥をよく見なさい。」   

    • 2010.10.22 Friday
    • 21:48
     ◆10月の聖句によせて   「空の鳥をよく見なさい。」   マタイによる福音書6章26節 
     空の鳥を見よ、野の花を見よ、撒かず紡がざるなり。ソロモンの栄華だに及ばざるなり。明日炉の中に放り込まれる野の花でさえ、神はかくも着飾ってくださる。ましてわれらに対して良くしてくださらないはずはないであろう・・・。
     こどもの頃から聖書を暗唱することは、生涯の宝になります。神の言葉は生涯の目的を見誤ることなく、人にとって何がより大切なものなのかを、忘れることなく魂に刻みつけてくれるものです。
     このごろ、年令のせいでしょうか、花を愛したり、動物を愛する気持ちが強くなってきているような気がします。わたしの母も植物が好きでした。そういえば祖父母もそうでした。
     長い休みには、きまって祖父母の家に行きました。楽しい思い出です。そこにはミカン畑があり、芝生があり、大きな桜の木や竹林もありました。朝早く起きて祖父と一緒に犬の散歩に出かけます。裏手の竹林をくぐり抜け、高校を校庭を横切り、慰霊塔やテニスコート、陸上競技場のスタンドを歩きます。時には、古い石垣が埋もれた林の中に入り込むこともありました。
     何を話す訳でもありません。朝露残る草を踏みながらすがすがしい時を過ごしたこと、祖父の周りを走り回ったことは今も心に鮮やかです。祖父は、わたしたち兄弟が中学に進学するときに、分厚い皮表紙の聖書をプレゼントしてくれました。そこには祖父の信仰と愛が込められていました。
      わたしに呼び求めよ。
     祖父が書いてくれた聖書の言葉が、その字体までもよみがえります。あのような人生を送りたい。幼いこころにその生き様が刻印されています。
     ホザナ幼稚園をきれいな花いっぱいにしたい。わたしの楽しみ、祈りは花でいっぱいの幼稚園にしたいということです。鳥が来て、木に宿り、蝶が舞い、トンボが遊びに来る。メダカも泳いでいるよ。こどもたちに神の愛が注がれますように。

    ◆10月の聖句によせて   「空の鳥をよく見なさい。」   

    • 2010.10.22 Friday
    • 21:48
     ◆10月の聖句によせて   「空の鳥をよく見なさい。」   マタイによる福音書6章26節 
     空の鳥を見よ、野の花を見よ、撒かず紡がざるなり。ソロモンの栄華だに及ばざるなり。明日炉の中に放り込まれる野の花でさえ、神はかくも着飾ってくださる。ましてわれらに対して良くしてくださらないはずはないであろう・・・。
     こどもの頃から聖書を暗唱することは、生涯の宝になります。神の言葉は生涯の目的を見誤ることなく、人にとって何がより大切なものなのかを、忘れることなく魂に刻みつけてくれるものです。
     このごろ、年令のせいでしょうか、花を愛したり、動物を愛する気持ちが強くなってきているような気がします。わたしの母も植物が好きでした。そういえば祖父母もそうでした。
     長い休みには、きまって祖父母の家に行きました。楽しい思い出です。そこにはミカン畑があり、芝生があり、大きな桜の木や竹林もありました。朝早く起きて祖父と一緒に犬の散歩に出かけます。裏手の竹林をくぐり抜け、高校を校庭を横切り、慰霊塔やテニスコート、陸上競技場のスタンドを歩きます。時には、古い石垣が埋もれた林の中に入り込むこともありました。
     何を話す訳でもありません。朝露残る草を踏みながらすがすがしい時を過ごしたこと、祖父の周りを走り回ったことは今も心に鮮やかです。祖父は、わたしたち兄弟が中学に進学するときに、分厚い皮表紙の聖書をプレゼントしてくれました。そこには祖父の信仰と愛が込められていました。
      わたしに呼び求めよ。
     祖父が書いてくれた聖書の言葉が、その字体までもよみがえります。あのような人生を送りたい。幼いこころにその生き様が刻印されています。
     ホザナ幼稚園をきれいな花いっぱいにしたい。わたしの楽しみ、祈りは花でいっぱいの幼稚園にしたいということです。鳥が来て、木に宿り、蝶が舞い、トンボが遊びに来る。メダカも泳いでいるよ。こどもたちに神の愛が注がれますように。

    ◆9月の聖句によせて   「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」

    • 2010.10.22 Friday
    • 21:41
     ◆9月の聖句によせて   「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」                            ルカによる福音書5章4節
     漁師の生活は、目には見えない湖底や海底を観たり、読んだりすることができなければなりません。直接には観ることができない世界を、長年の経験と勘で、気候変動、気温や風、波の具合をじっと観察して、見えない水底を読み取り決断するのです。
     沖には危険もあります。自然を見くびることは許されません。万全の準備、集中して仕事に従事するのです。天体を読み、風を読む。五感を全開して魚の匂いを嗅ぎわけるのです。
     これらの仕事は、こどもにとって最高の訓練です。父親はこどもを漁に伴わせ、網を降ろしたり、引き上げたりさせます。魚が獲れたときの感動を一緒に感じとらせます。船上で、すぐさま新鮮な刺身をいただき、神さまに感謝の祈りをささげるのです。
     魚は美しい姿で水の中を泳いで行きます。獲れた魚は感謝していただき、自由に泳ぐ魚には、元気に育てと祈ります。
     主イエスは、沖へと漕ぎ出すように弟子たちにお命じになられました。わたしたちへ未知の領域へと前進するようにと促していらっしゃるかのようです。これは冒険です。挑戦です。自分たちの安住する世界だけで生きるのではなく、大自然との格闘へと背中を押してくださるのです。こどもたちは毎日、こころのなかにわき起こる好奇心、冒険心でワクワク・ドキドキしながら、未知との出会いを経験しているのです。
     そこでときには怪我をするときもありましょう。でもそれが経験則として確実に「賢さ」を身につける大切な蓄えとなるのです。
     時には自分の力を越えた挑戦もするでしょう。「網を引く」力が及ばない時もあるのです。そんなときに「力を合わせて網を引く」工夫をして、「○○ちゃん、手伝ってね」と仲間を呼びます。「うん、面白そうだね。ぼくにもやらせて!」。
     こうして協同の遊びが生まれます。こどもたちが幼稚園で経験する「お仕事」」は抽象的な教科学習ではありません。将来抽象的な数字や文字を駆使する時に必要な具体的な経験の蓄積が大切なのです。現実と抽象を対応ちからは、現実との格闘であったり、創造的な協同の体験をどれだけ豊富に味わえるかにかかっています。だからこそ幼児期は、自由な遊びが大切なのです。

    ◆9月の聖句によせて   「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」

    • 2010.10.22 Friday
    • 21:41
     ◆9月の聖句によせて   「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」                            ルカによる福音書5章4節
     漁師の生活は、目には見えない湖底や海底を観たり、読んだりすることができなければなりません。直接には観ることができない世界を、長年の経験と勘で、気候変動、気温や風、波の具合をじっと観察して、見えない水底を読み取り決断するのです。
     沖には危険もあります。自然を見くびることは許されません。万全の準備、集中して仕事に従事するのです。天体を読み、風を読む。五感を全開して魚の匂いを嗅ぎわけるのです。
     これらの仕事は、こどもにとって最高の訓練です。父親はこどもを漁に伴わせ、網を降ろしたり、引き上げたりさせます。魚が獲れたときの感動を一緒に感じとらせます。船上で、すぐさま新鮮な刺身をいただき、神さまに感謝の祈りをささげるのです。
     魚は美しい姿で水の中を泳いで行きます。獲れた魚は感謝していただき、自由に泳ぐ魚には、元気に育てと祈ります。
     主イエスは、沖へと漕ぎ出すように弟子たちにお命じになられました。わたしたちへ未知の領域へと前進するようにと促していらっしゃるかのようです。これは冒険です。挑戦です。自分たちの安住する世界だけで生きるのではなく、大自然との格闘へと背中を押してくださるのです。こどもたちは毎日、こころのなかにわき起こる好奇心、冒険心でワクワク・ドキドキしながら、未知との出会いを経験しているのです。
     そこでときには怪我をするときもありましょう。でもそれが経験則として確実に「賢さ」を身につける大切な蓄えとなるのです。
     時には自分の力を越えた挑戦もするでしょう。「網を引く」力が及ばない時もあるのです。そんなときに「力を合わせて網を引く」工夫をして、「○○ちゃん、手伝ってね」と仲間を呼びます。「うん、面白そうだね。ぼくにもやらせて!」。
     こうして協同の遊びが生まれます。こどもたちが幼稚園で経験する「お仕事」」は抽象的な教科学習ではありません。将来抽象的な数字や文字を駆使する時に必要な具体的な経験の蓄積が大切なのです。現実と抽象を対応ちからは、現実との格闘であったり、創造的な協同の体験をどれだけ豊富に味わえるかにかかっています。だからこそ幼児期は、自由な遊びが大切なのです。

    ★8月の聖句によせて イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。

    • 2010.10.22 Friday
    • 21:35

     ★8月の聖句によせて   イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。
                                    ルカによる福音書4章40節
     福音書記者ルカが記録した、この主イエス・キリストによる癒しの出来事は、薬とか、暗示とかによるものではありません。主イエスが手を置いたことによって癒されたのです。不思議なことが起きたものです。報告しているルカ自身も驚きつつ報告しているのではないかと思われます。
     ルカは医者であったと言われていますから、この因果律を超えた非合理的な事件に驚いていたのではないかと思われます。科学的知見では説明がつかない出来事でも、主イエスが神の独り子なる神であらせられるとすれば、説明がつく、この出来事に、記録・報告者ルカ自身がもうその出来事の一部と化しています。
     ルカが注目していたのは、イエスさまが「ひとりひとりに」向き合っておられたという主イエスの関わり方であったようです。大勢の人々を前にひとくくりに関わろうとされたのではなく、それぞれの人に、それぞれの関わり方をされたという事態に、ルカは関心を向けています。わたしたちひとりひとりに対して、固有な(そのものだけにあること)関わりをしてくださるのだということが短い報告から伝わってきます。
     主イエスがそうでありたまうがゆえに、キリスト教保育は、「ひとくくりの教育」ではなく、固有な関わりを志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)します。「ひとくくりにする」のは、こどもに対して、知識のような何かを教え込もうとするからです。小学校に入れば、そういう教育が待っています。それは教科教育には必要なことでもあるのです。
     けれども教育は、教師とこどもの信頼関係によってこそ、豊かな実を結びます。「ひとりひとりに向き合う」教育を親も学校も一緒になって、それぞれの立場で、懸命に祈り求めてゆくべきではないでしょうか。
     ホザナ幼稚園に集うすべてのこどもたちは、神さまから預かったこどもたちです。親御さんが神さまという意味ではありません。ひとりひとりの存在が、神さまによって創造されているという確信のことを言っています。わたしたちは神さまからお預かりしたこどもたちを神さまの願いのように育みたい、この一念で働いています。
     奇跡は起こります。
     主イエスが奇跡をを起こしてくださるのです。わたしたちにはできなくても、神さまにできないことは何一つありません。主イエスが「手を置いた」一人ひとりは癒されました。癒しがたい事であっても、そこに癒しが起きた事実を医者であるルカは報告しているのです。彼自身の驚きが込められています。
     お子さまと、こころをこめて、祈りつつ、向き合ってみませんか。
     お子さまの記憶に、「優しい母(父)」、「見つめてくれる母(父)」、「本を読んでくれる母(父)」、「おいしいご飯をつくってくれた母(父)」、「いっしょに遊んでくれた母(父)」が刻まれてゆくことでしょう。それは、必ずお子さまの宝になります。よりどころになります。癒しになります。
     お子さまが、将来、何かのトラブルにまきこまれたとき、失敗したとき、お子さまの思い出のなかに潜んでいる、優しい母や父の見守るまなざしの記憶から、泉のように湧き出る「生きる力」をくみ出すことができるでしょう。主イエスさまの奇跡は10年後、20年後に明らかになるでしょう。
     いま、わたしたちが、こどもたちに向ける、優しさ、厳しさ、愛情、適切な関わり方が、ひとりひとりのこどもたちの10年後、20年後の将来に、「生きる力」となって立ち現れてくるでしょう。
     今、わたしたちはその礎を育んでいるのです。このことを忘れないようにいたしましょう。

    ★8月の聖句によせて イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。

    • 2010.10.22 Friday
    • 21:35

     ★8月の聖句によせて   イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。
                                    ルカによる福音書4章40節
     福音書記者ルカが記録した、この主イエス・キリストによる癒しの出来事は、薬とか、暗示とかによるものではありません。主イエスが手を置いたことによって癒されたのです。不思議なことが起きたものです。報告しているルカ自身も驚きつつ報告しているのではないかと思われます。
     ルカは医者であったと言われていますから、この因果律を超えた非合理的な事件に驚いていたのではないかと思われます。科学的知見では説明がつかない出来事でも、主イエスが神の独り子なる神であらせられるとすれば、説明がつく、この出来事に、記録・報告者ルカ自身がもうその出来事の一部と化しています。
     ルカが注目していたのは、イエスさまが「ひとりひとりに」向き合っておられたという主イエスの関わり方であったようです。大勢の人々を前にひとくくりに関わろうとされたのではなく、それぞれの人に、それぞれの関わり方をされたという事態に、ルカは関心を向けています。わたしたちひとりひとりに対して、固有な(そのものだけにあること)関わりをしてくださるのだということが短い報告から伝わってきます。
     主イエスがそうでありたまうがゆえに、キリスト教保育は、「ひとくくりの教育」ではなく、固有な関わりを志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)します。「ひとくくりにする」のは、こどもに対して、知識のような何かを教え込もうとするからです。小学校に入れば、そういう教育が待っています。それは教科教育には必要なことでもあるのです。
     けれども教育は、教師とこどもの信頼関係によってこそ、豊かな実を結びます。「ひとりひとりに向き合う」教育を親も学校も一緒になって、それぞれの立場で、懸命に祈り求めてゆくべきではないでしょうか。
     ホザナ幼稚園に集うすべてのこどもたちは、神さまから預かったこどもたちです。親御さんが神さまという意味ではありません。ひとりひとりの存在が、神さまによって創造されているという確信のことを言っています。わたしたちは神さまからお預かりしたこどもたちを神さまの願いのように育みたい、この一念で働いています。
     奇跡は起こります。
     主イエスが奇跡をを起こしてくださるのです。わたしたちにはできなくても、神さまにできないことは何一つありません。主イエスが「手を置いた」一人ひとりは癒されました。癒しがたい事であっても、そこに癒しが起きた事実を医者であるルカは報告しているのです。彼自身の驚きが込められています。
     お子さまと、こころをこめて、祈りつつ、向き合ってみませんか。
     お子さまの記憶に、「優しい母(父)」、「見つめてくれる母(父)」、「本を読んでくれる母(父)」、「おいしいご飯をつくってくれた母(父)」、「いっしょに遊んでくれた母(父)」が刻まれてゆくことでしょう。それは、必ずお子さまの宝になります。よりどころになります。癒しになります。
     お子さまが、将来、何かのトラブルにまきこまれたとき、失敗したとき、お子さまの思い出のなかに潜んでいる、優しい母や父の見守るまなざしの記憶から、泉のように湧き出る「生きる力」をくみ出すことができるでしょう。主イエスさまの奇跡は10年後、20年後に明らかになるでしょう。
     いま、わたしたちが、こどもたちに向ける、優しさ、厳しさ、愛情、適切な関わり方が、ひとりひとりのこどもたちの10年後、20年後の将来に、「生きる力」となって立ち現れてくるでしょう。
     今、わたしたちはその礎を育んでいるのです。このことを忘れないようにいたしましょう。

    ★8月の聖句によせて イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。

    • 2010.10.22 Friday
    • 21:35

     ★8月の聖句によせて   イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。
                                    ルカによる福音書4章40節
     福音書記者ルカが記録した、この主イエス・キリストによる癒しの出来事は、薬とか、暗示とかによるものではありません。主イエスが手を置いたことによって癒されたのです。不思議なことが起きたものです。報告しているルカ自身も驚きつつ報告しているのではないかと思われます。
     ルカは医者であったと言われていますから、この因果律を超えた非合理的な事件に驚いていたのではないかと思われます。科学的知見では説明がつかない出来事でも、主イエスが神の独り子なる神であらせられるとすれば、説明がつく、この出来事に、記録・報告者ルカ自身がもうその出来事の一部と化しています。
     ルカが注目していたのは、イエスさまが「ひとりひとりに」向き合っておられたという主イエスの関わり方であったようです。大勢の人々を前にひとくくりに関わろうとされたのではなく、それぞれの人に、それぞれの関わり方をされたという事態に、ルカは関心を向けています。わたしたちひとりひとりに対して、固有な(そのものだけにあること)関わりをしてくださるのだということが短い報告から伝わってきます。
     主イエスがそうでありたまうがゆえに、キリスト教保育は、「ひとくくりの教育」ではなく、固有な関わりを志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)します。「ひとくくりにする」のは、こどもに対して、知識のような何かを教え込もうとするからです。小学校に入れば、そういう教育が待っています。それは教科教育には必要なことでもあるのです。
     けれども教育は、教師とこどもの信頼関係によってこそ、豊かな実を結びます。「ひとりひとりに向き合う」教育を親も学校も一緒になって、それぞれの立場で、懸命に祈り求めてゆくべきではないでしょうか。
     ホザナ幼稚園に集うすべてのこどもたちは、神さまから預かったこどもたちです。親御さんが神さまという意味ではありません。ひとりひとりの存在が、神さまによって創造されているという確信のことを言っています。わたしたちは神さまからお預かりしたこどもたちを神さまの願いのように育みたい、この一念で働いています。
     奇跡は起こります。
     主イエスが奇跡をを起こしてくださるのです。わたしたちにはできなくても、神さまにできないことは何一つありません。主イエスが「手を置いた」一人ひとりは癒されました。癒しがたい事であっても、そこに癒しが起きた事実を医者であるルカは報告しているのです。彼自身の驚きが込められています。
     お子さまと、こころをこめて、祈りつつ、向き合ってみませんか。
     お子さまの記憶に、「優しい母(父)」、「見つめてくれる母(父)」、「本を読んでくれる母(父)」、「おいしいご飯をつくってくれた母(父)」、「いっしょに遊んでくれた母(父)」が刻まれてゆくことでしょう。それは、必ずお子さまの宝になります。よりどころになります。癒しになります。
     お子さまが、将来、何かのトラブルにまきこまれたとき、失敗したとき、お子さまの思い出のなかに潜んでいる、優しい母や父の見守るまなざしの記憶から、泉のように湧き出る「生きる力」をくみ出すことができるでしょう。主イエスさまの奇跡は10年後、20年後に明らかになるでしょう。
     いま、わたしたちが、こどもたちに向ける、優しさ、厳しさ、愛情、適切な関わり方が、ひとりひとりのこどもたちの10年後、20年後の将来に、「生きる力」となって立ち現れてくるでしょう。
     今、わたしたちはその礎を育んでいるのです。このことを忘れないようにいたしましょう。
     


     


     


     


     



     

    ★8月の聖句によせて イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。

    • 2010.10.22 Friday
    • 21:35

     ★8月の聖句によせて   イエスはそのひとりひとりに手を置いていやされた。
                                    ルカによる福音書4章40節
     福音書記者ルカが記録した、この主イエス・キリストによる癒しの出来事は、薬とか、暗示とかによるものではありません。主イエスが手を置いたことによって癒されたのです。不思議なことが起きたものです。報告しているルカ自身も驚きつつ報告しているのではないかと思われます。
     ルカは医者であったと言われていますから、この因果律を超えた非合理的な事件に驚いていたのではないかと思われます。科学的知見では説明がつかない出来事でも、主イエスが神の独り子なる神であらせられるとすれば、説明がつく、この出来事に、記録・報告者ルカ自身がもうその出来事の一部と化しています。
     ルカが注目していたのは、イエスさまが「ひとりひとりに」向き合っておられたという主イエスの関わり方であったようです。大勢の人々を前にひとくくりに関わろうとされたのではなく、それぞれの人に、それぞれの関わり方をされたという事態に、ルカは関心を向けています。わたしたちひとりひとりに対して、固有な(そのものだけにあること)関わりをしてくださるのだということが短い報告から伝わってきます。
     主イエスがそうでありたまうがゆえに、キリスト教保育は、「ひとくくりの教育」ではなく、固有な関わりを志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)します。「ひとくくりにする」のは、こどもに対して、知識のような何かを教え込もうとするからです。小学校に入れば、そういう教育が待っています。それは教科教育には必要なことでもあるのです。
     けれども教育は、教師とこどもの信頼関係によってこそ、豊かな実を結びます。「ひとりひとりに向き合う」教育を親も学校も一緒になって、それぞれの立場で、懸命に祈り求めてゆくべきではないでしょうか。
     ホザナ幼稚園に集うすべてのこどもたちは、神さまから預かったこどもたちです。親御さんが神さまという意味ではありません。ひとりひとりの存在が、神さまによって創造されているという確信のことを言っています。わたしたちは神さまからお預かりしたこどもたちを神さまの願いのように育みたい、この一念で働いています。
     奇跡は起こります。
     主イエスが奇跡をを起こしてくださるのです。わたしたちにはできなくても、神さまにできないことは何一つありません。主イエスが「手を置いた」一人ひとりは癒されました。癒しがたい事であっても、そこに癒しが起きた事実を医者であるルカは報告しているのです。彼自身の驚きが込められています。
     お子さまと、こころをこめて、祈りつつ、向き合ってみませんか。
     お子さまの記憶に、「優しい母(父)」、「見つめてくれる母(父)」、「本を読んでくれる母(父)」、「おいしいご飯をつくってくれた母(父)」、「いっしょに遊んでくれた母(父)」が刻まれてゆくことでしょう。それは、必ずお子さまの宝になります。よりどころになります。癒しになります。
     お子さまが、将来、何かのトラブルにまきこまれたとき、失敗したとき、お子さまの思い出のなかに潜んでいる、優しい母や父の見守るまなざしの記憶から、泉のように湧き出る「生きる力」をくみ出すことができるでしょう。主イエスさまの奇跡は10年後、20年後に明らかになるでしょう。
     いま、わたしたちが、こどもたちに向ける、優しさ、厳しさ、愛情、適切な関わり方が、ひとりひとりのこどもたちの10年後、20年後の将来に、「生きる力」となって立ち現れてくるでしょう。
     今、わたしたちはその礎を育んでいるのです。このことを忘れないようにいたしましょう。

    PR

    calendar

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31      
    << October 2010 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    • キリスト教主義教育における神の像の提示について
      エムト (10/10)

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM