JUGEMテーマ:建学の精神
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 マタイによる福音書28章20節
主イエスさまは、十字架上で、わたしたち人の罪を贖うために死なれました。わたしたちが父でありたもう神さまと離れてしまったので、わたしたちはすべてだれひとりの例外なく、神さまと隣人を愛することができず、むしろ憎む心を受け継いで生まれてきたのです。
本来は、神さまの子どもとして、神さまの愛を受けて、神さまを父として愛し、神さまの愛の体現者として生まれてくるはずでしたが、人類の始祖アダムとエバは、神さまの戒めを破り、楽園から追放されてしまったからです。
それで、神さまが創造された世界は、天国(神の支配という意味)から地獄へと変わり果ててしまいました。そこに住んでいる人は神の支配ではなく、自己中心的な自我を神の座にしているので、世界は変わり果ててしまいました。この生き地獄のような世界を神の国(神の支配=天国)へと、再び創造するために、主イエスはお生まれになりました。主イエスさまは「インマヌエル」(神われらと共にいますという意味)と呼ばれるであろうと、天使ガブリエルはマリアに告げ知らせましたね。
イエスさまは、神さまから離れてしまい、自分を神とする傲慢な人を再び「神の子」として再創造するために、人の罪をなきものとする「贖罪の犠牲」となり、ご自身をお捧げになられたのです。人が受けるとしたら、滅びるより他はない「罪」(神さまと離れていること)の懲罰を、ご自身を「犠牲の子羊」として捧げ、神の独り子なる神でありながら、神なき世界(神を喪失せいた世界=陰府)へと降って行かれたのです。
しかし、主イエスは、三日後に、死の世界(神なき世界)からよみがえられて、復活者イエスとして、人類の前に現れてくださいました。そして40日間、500人以上の人びとと共に寝食を共にして、ついに弟子たちの見ている目の前で、天へと昇って行かれました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というみことばは、よみがえられた主イエスさまが、天へと昇り、父なる神の右に帰られる際、聖霊なる神として再び人類と共に存在してくださることを約束してくださったみことばです。それゆえに人は、「聖霊よ、来て下さい。」Veni Sancte Spiritus ヴェニ・サンクテ・スピリトゥスと祈るのです。
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人間相互の共感性保持を、あえて凝縮して、定言的命法(無条件に「〜せよ」と命じる絶対的命法)で語る神のみ言葉として、深く心に刻まれます。
使徒パウロの言葉ではあるけれども、パウロに注がれている聖霊の語りたもうた神の定言命令としか、わたしには思えません。
「喜ぶ者」がどんな喜びに包まれているのか。
「泣く者」がどんな悲しみに沈んでいるのか。
一切語られていなくても、その「喜び」、その「悲しみ」が、共感すべき「喜び、悲しみ」であることは命令法自体が既に含んでいます。すなわち、「邪悪な喜び」、「邪悪な悲しみ」は、定言命令法自体が排除している。人として「高潔な喜び」、「尊厳ある悲しみ」にこそ、共感しなさいと命じているのです。
隣人の「喜び」に共感できる力、「悲しみ」に共感できる力。この力は、端的に「愛」の力と言ってよいでしょう。
親は、こどもの「喜び」に共感して自らの「喜び」と感じます。
こどもの「悲しみ」に共感して自らも深く悲しみ、痛みます。
こどもは親の「喜び」を、自らの「喜び」として「喜び」ます。
こどもが何かを達成し得た時の、親の喜びは、こどもに深い「喜び」として心に刻まれます。親の喜ぶさまを観たいと願うようになります。
また、親を悲しませたくないと願うようになります。
この共感する力の循環は、わたしたちの心に響く神の定言的命令によって、限りなく永続してゆくのではないでしょうか。
「観てみ観て!わたし、できたよ!」と誇らしげに自分の達成した「成果物」の評価を、親に求めるのは、「親の喜ぶありさま」を観たい・感じたいからではないでしょうか。
自分自身が密やかに喜んでいるだけではなく、親にも共に喜んでほしい!親もまた、子どもが喜ぶ姿を、心から祈り願うでしょう。
隣人の「喜び」を、率直に「喜べる」ことは、隣人との紐帯を堅くします。隣人の「傷み・悲しみ」に、素直に「同調」することは、「礼節」ですらあります。
「共感力」を深めること、この「力の循環」を育むこと、それがわたしたちの共通の祈り、願いでありましょう。
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この主イエスのみ言葉には、究極の「積極的思考法」が表明されています。
もちろん、思考するだけで、それに伴う努力とか精進とかなければ、求めにふさわしい結果を得ることはできません。何も望まないところ、求めないところには、何の結果も生まれては来ません。まず、自己自身が、何を欲しているのか、明確な自覚があってこそ、その目標を目指しての生活が始められるものです。
ただ、いわゆる「ポジティブ・シンキング」には、マインドコントロールの罠が仕込んであるので、わたしは眉に唾をつけてみることにしています。誰もが抱いている劣等感や自尊感情の低さを利用して、巧みに隷属的な状態へと誘導する「自己啓発」が社会問題にもなっています。しかし「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。」(マタイ12:33)
「木をその実を見れば分かる」ものです。
主イエスが語られたみ言葉には。人を操り奴隷に変えてしまうような要素は微塵もありません。むしろ、究極的な自己実現の思考法というべきでしょう。
「求める」という動機が、自分自身のなかに生まれてくることが、大切だということです。しかも、その「求める」ことの中身が重要です。
主イエスが「求めなさい」と命じておられる事柄が、「悪事」でないのは当然でしょう。神さまが「悪事」をなさることはあり得ないし、命じることもあり得ません。神さま(イエスさま)が命じる事柄は、「善」であり、「完全さ」であり、「正しさ(正義)」であり、「公正さ」であり、あらゆる「よきもの」です。
神さまは、わたしたちひとりひとりに、わたしたちひとりひとりにとって「よきもの」を実現するように、あらゆる「よきもの」を「求める」ことを、こよなく切に、求めておられる。神さまご自身が、わたしたちにとって「よきもの」の実現を求めておられるからこそ、「求めなさい」と命じたもう。
新しい、一年が、お一人お一人にとって、最善、最大、最高の「よきもの」が実現されるように、強く「求める」動機が生まれますように、天よりの恵み(ギフト)が賜与されますようにと、心より祈ります。
ハッピー・ニューイヤー!
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◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ>
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」マタイによる福音書2章10節
神の啓示と宇宙にはなにかしらの関係があるという事実を示している聖句です。
わたしはこどもの頃からプラネタリウムが大好きで、当時は最新鋭だった五島プラネタリウムへ、母によく連れて行ってもらいました。
名著『星と神話伝説』(野尻抱影著)を夢中になって読んでは星空に夢をはせていた少年でした。
わたしは、何が不思議といってこれほど不思議なことがあるのかなと思ったのは、真北を示す北極星の存在でした。北斗七星から見つけ出した北極星を眺めては、「神さまはすごいなあ」と感動していました。
東方の博士たちは、古代の天文学者です。
澄み切った乾燥したメソポタミアの砂漠では、旅をするときに方向を知る手段は星空でした。
北極星(ポーラースター)の存在は、天空の地図を描く時に欠かせない基準点になった筈です。
星を観察することで占星術はやがて天文学へと発展してゆきます。
当時は人類の命運・人生の命運と天空の星とが何かしらのつながりがあると古代人は直感して生きていました。
星の運行と人生を切り離して純粋な観察者の態度と対象世界を分離独立させる科学的態度がやがて確立してゆきます。
天文学の誕生です。
宇宙についての学問は、急速に進歩して、宇宙創生の科学的な知見はどんどん緻密になっています。そして限りある地球環境は人類の急速な人口増大とそれに伴う劇的な環境破壊によって、この惑星は生物環境の限界に近づいています。
東方の天文学者たちが歓喜した星の発見とは、キリスト・イエスの誕生を啓示でした。
神さまによって創られた存在である星(被造物)が、神さまの意思を伝える出来事となったのでした。
地球という環境世界の危機に際して、キリスト・イエスを指し示す「星」を、わたしたちは観ることができるでしょうか。
希望は既に示されました(クリスマス)。
わたしたちの周囲に、この「星」を見いだして、ともどもに歓喜の歌を歌いたいと思います。
神は信じる者に、必ずやその「星」を示してくださることでしょう。
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イエス・キリストがご自身を語る独特な比喩です。「わたしは〜である」と言いきっておられます。もちろん比喩であることは一目瞭然です。
「ぶどうの木」という比喩を聴いたときに、わたしたちが想像力が全開して、さまざまなイメージの世界へと導かれます。
このイエスさまの自己開示を、わたしたち自身が、どのように受けとめ、それを自分自身の人格を形成し、陶冶し、支える「神の言」としてゆけるのか。
言い換えると、信仰の言として、この言葉を魂から受けとめることができるかどうかで、この言葉を生きてゆく霊の糧とできるか、素通りするかがほぼ決まります。
イエスは、「人はパンのみにて生くるにあらず。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる。」と語られました。
苦難の最中で、呻吟しながらも、神の言葉にすがり、支えられて、再び生きる力を取り戻してゆくという体験は誰にでもあるでしょう。たとえ、その支える言葉が、実は神の口から出ているという事実を知らない場合であってもです
イエスは父なる神とご自身との関係を父子として自覚されていました。
イエスの地上での父ヨセフは大工でしたから、「わたしの父は農夫」と言われているのは「父なる神」を指していると考えられるからです。
「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
イエスは神とご自身との関係を父子として、かつわたしたち人間とご自身との関係を、「ぶどうの木」と「その枝」と言われました。
この比喩により、わたしたちと神さまとの関係もまた、「父子」であることを宣言されていることになります。
主イエスの存在につながっている「枝」であるわたしたちは人間は、主イエスの肢体の一部だというのです。
すなわち、主イエスは、わたしたち人間と神さまとの関係は、主イエスの枝であるがゆえに、「父子」なのだというのです。わたしたちは創造主なる神を、「父よ」と呼びうる存在なのだとイエスは宣言してくださったのです。
なんという恵みでしょうか。わたしたちは、神さまから、「子よ」と呼ばれるものとされているというのです。
子どもたちひとりは、主イエスの「枝」であるのですから「神の子」なのです。
尊い存在なのです。そのような視点で、こどもたちをみつめることが教育の原点であるべきでしょう。
子どもたちはひとしく尊い神の子なのです。
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コリントの信徒への手紙?3章6節
わたしたちは、数え切れないほどに多くの人々の「おかげ」をこうむって生きています。どんなにあがいても、自分が生まれてくる場所や環境を自分が選んで生まれてくるという選択肢をもって生まれてくることはできません。わたしたちは、それを運命とか宿命とかの言葉で表現せずに、神さまの意思によって生まれて来たととらえます。何かの法則とか、定めとかではなくて、創造者なる神さまの明確な意思、決断が、ひとりひとりに注がれているし、いま、この瞬間も神さまの見守りのなかで生きている、そう世界をとらえています。
今日、誰と出会い、どんな会話をして、どんな気持ちになるか。それもこれも神さまの見守りのうちに、私たちは、神さまの願いを浴びながら生きている。
出会いさせていただく人々、大人たち、お友だち、お店の人、幼稚園の先生・・・。こどもたちの出合う環境世界は、神さまのはかりしれないご計画、御意志によって、わたしたち(こどもたち)に備えられた恵みの世界です。
この素晴らしい出会いによって、わたしたち(こどもたち)は、着実に、ひとりひとり、それぞれに「成熟」「成長」が心身に生起しています。この毎日の微妙な変化に、静まって目を凝らし、耳をすませて、思いめぐらしましょう。この日々変えられている「成長」の徴を喜びましょう。この喜びを喜び、神さまへの賛美としましょう。
使徒パウロは、神の愛の福音を全世界の人々に伝えましたが、実際には出合った一人一人に伝えたのです。伝えられた人がまた他の人に伝えて、世界に神の愛の福音は伝わって、人類の生きる支えとなっています。しかし彼は、「わたしは植えた」と言い、そして「アポロは注いだ」と加えたのです。彼は、愛の福音が伝わってゆく力の根源は、決して自分の能力によるものとはしなかったのです。
出会う環境世界のすべては、神さまが備えてくださっている。
多くの人びとが、わたしたち(こどもたち)の「成長」を促してくれている。
この環境世界(神さまに用意された世界)への揺るぎない信頼感が、人格を豊かに「成長」させてくれると考えたのです。
さらに肝心な事は、わたしたち(こどもたち)自身が、実はどのような苛酷な環境に出会っても、それを自分自身を高み・深み・広がりの世界へと導くものとして昇華させる力(生きる力)を、神より賜っているのだという「自己」を信じることでもありました(自己肯定感)。
自己をとりまく環境世界への信頼、自己自身への深い信頼、自己肯定感に充満した人格形成こそ、私たちの目標です。信頼こそが信仰なのです。
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◆聖句によせて
「主よ。・・・わたしたちにも祈りを教えてください。」
ルカによる福音書11章1節
What a wonderful world!から
I hear baby's crying and I watched them grow
赤ん坊たちが元気に泣いている 彼らが成長するのを見守るんだ
They'll learn much more than I'll ever know
彼らは 私よりもずっと多くのことを学ぶだろう
And I think to myself
そして 心の中で思うんだよ
What a wonderful world.
なんて素晴らしい世界なんだろうって
Yes, I think to myself what a wonderful world.
そう 心の中で思うんだよ
What a wonderful world.
なんて素晴らしい世界なんだろうって
「苦しい時の神だのみ」といいますが、神さまへの祈りは、苦しい時だけにではなく、嬉しい時にも、楽しい時にも祈るでしょう。
What a wonderful world!と「自分自身の心の中で思うんだよ」と、歌っているけれど、
この歌は、「輝きに満ちた祝福された日」とか、「暗くて神聖な夜」とか、
この世界が神さまによって、とてつもない不思議さと、驚くべき素晴らしさで充溢している事への素直な感動・賛美になっていると思います。
こどもたちは、ものすごい力でこの世界を吸収しています。
私たち大人は、こどもたちが吸収する最も近接した「環境」に他なりません。
こどもたちが、神さまが与えてくださった「素晴らしき世界」を吸収して、「分別」ある大人へと成熟することを、わたしたちは「見守る」ことを喜びとしています。
まさにこれこそ、わたしたちの子どもたちへの、神さまに祈る祈りそのものでではないでしょうか。
すべてのものを吸収する幼児期こそ、おとなたちは、可能なかぎり「よき環境」を子どもたちのために整えるべきではないでしょうか。
わたしたち自身が、よき環境として成熟してゆくことも、祈りとして日々捧げようではありませんか。
「空の鳥をよく見なさい。・・・あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
マタイによる福音書6章26節
すべての存在は神によって創造された。
信仰の言説と科学的言説は区別されます。
科学は、現に存在している現実を事実として表記するだけです。
信仰の言説は、それはどこまでも「信仰告白」です。
この信仰告白を、わたしたちは意識するにせよ、無意識にせよ、この確信に基づいているとしか思えないほどに、この世界を、感謝、驚嘆、讃美、感動する感性をもって受けとめているではありませんか。
「なんと素晴らしい世界だろう!」
Louis Armstrong – What a wonderful world
I see trees of green,red roses too.
I see them bloom,for me and you.
And I think to myself,what a wonderful world.
I see skies of blue,And clouds of white.
The bright blessed day,The dark sacred night.
And I think to myself,What a wonderful world.
The colors of the rainbow,So pretty in the sky.
Are also on the faces,Of people going by,
I see friends shaking hands.
Saying, “How do you do?”
They’re really saying,“I love you”.
I hear babies cry,I watch them grow,They’ll learn much more,Than I’ll ever know.
And I think to myself,What a wonderful world.
Yes, I think to myself,What a wonderful world.Oh yeah.
私には緑の木々が見える、赤いバラの花々も私と君のために咲いているんだ。
そしてひとり思うんだ、なんて素晴らしい世界だと。
私には青い空が見える、白い雲も輝き祝福された日、暗い神聖な夜。
そしてひとり思うんだ、 なんて素晴らしい世界だと。
虹の色彩、空にあって何と可愛らしい。
行き交う人々のその顔にもあって、私には友人たちが握手しているのが見える、「ごきげんいかが?」って言ってるよ
彼らは本当は言ってるんだ。「愛しています」って。
私は赤ちゃんたちの泣き声が聞こえる、彼らの成長を見守ろう。
彼らはより多くを学ぶだろう、私が知るだろうことよりも。
そしてひとり思うんだ、 なんて素晴らしい世界だと。
そうさ、ひとり思うんだ、なんて素晴らしい世界だと。
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2018年5月聖句によせて
「わたしは良い羊飼いです。」
ヨハネによる福音書10章11節
主イエス・キリストは、「わたしは良い羊飼いです。」と、ご自身を喩えられました。そしてわたしたちを「羊」だとも言われました。良い羊飼いは、羊のために命を棄てると言われました。羊の命を守るためです。
神の独り子なる神だからこそ、わたしたちのために命を棄てることができました。棄てることができるのは、命を得ることもできるからからです。
イエスさまは、命を得ることもできるお方でした。よみがえられたのです。復活の命をもってよみがえられました。だから、わたしたちは、イエスさまの復活の命にあずかり、死んでも生きることができるようになりました。
わたしは良い羊飼いですというお言葉は、この命にかかわる真理がこめられています。
「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。生きている者は、永遠に死ぬことがない。」
イエスさまは、わたしたちに命を与えてくださいました。
イエスさまのこのお言葉を信じさえすれば、死ぬことはもはやないのだよ、と主イエスは、保証してくださったのです。
すばらしいお言葉ですね。
こどもたちを、みつめていると、この命の不思議さ、尊さ、美しさが、限りなく感じられてきます。
こどもたちは、神さまの命の存在が確かなものだという現実を、証明している存在です。
じっと、みつめ、じっと耳をすまして、神さまのいのちの息吹を全身全霊で感じとりましょう。
そして、こころの奥深くから、覚悟を堅く固めようではありませんか。
この命の尊厳を、わたしたちは、見守り続けます。
神さまから贈られた尊い存在を、一個の独立した人格存在を、それ自体を尊び、守り、支え、育むことのために、わたしたちはこれからの人生を歩みますと。
イエスさまが、愛してくださったように、わたしたちも愛することができますようにと。
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4月主題聖句「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」・・・そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
マルコによる福音書10章14節〜16節
人間同士が互いに愛し合うということは、いったいどのようなことを言うのでしょうか。
非常にすぐれた頭脳をもって、高い能力を身につけている人でも、人を見下したり、敬意をもたずに蔑んだりする人もいます。そういう人でも愛を説いたり、勧めたりするのですが、その人から蔑まれたり、見下されたりしている人は、その人から愛を受け取ることは、通常はできません。
つまり愛は、いくら説いたり、解説されても、愛が理解できたり、感じたりするという事柄なのではなくて、きわめて具体的な、身体的かつ精神的な、つまり全人格的なかかわり合いのなかで、なんらかの感動をともなう仕方で、わたしたちの経験において、伝わる事柄だからです。
イエス・キリストは、神が愛でありたもうことを身をもって示された方です。
愛をどれほど多く語ったとしても、愛を具体的に示されなかったとすれば、愛の言葉は虚しく消え入るだけですが、イエス・キリストは、ご自身のすべてを十字架上で、殺され、犠牲となられたことによって、神がわたしたちを具体的に愛してくださっていることを、あきらかにされました。
神の独り子なる神の子イエスが、わたしたちの「罪のあがない」として、十字架で死んでくださったことにより、わたしたちの罪は、赦され、あたいなしに神の子とされました。ここに愛があります。
この愛を、わたしたちは、すでに、あまねく受けています。
現に受けているこの犠牲を愛を、具体的な感動の経験として、感じとり、認識し、この愛によって包まれているならば、わたしたちは、この現に受けている愛、現に包まれている愛を、こんどは、わたしたちの隣人に向けて、反射すること、放射することができるはずです。
現に受けているところの無限の、無条件の神の愛を、こともたちに、隣人にむけて伝えることを得させてくださいと、共に祈りましょう。
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「せんかたつくれども、希望(のぞみ)を失わず」
(コリント後書4章8節(文語訳)
このパウロの言葉は、わたしの祖父清水安三が終生愛した言葉です。
意味を知るために、わかりやすい現代の言葉、新共同訳と口語訳で紹介します。新共同訳と口語訳
この言葉「せんかたつくれども、希望(のぞみ)を失わず」が、全人格の真ん中に刻み込まれているとしたならば、どれほど、力強く生きることができるでしょうか。
教育の目標に、「生きる力」を、国も掲げるようになりました。
どんな苦境に陥っても、行き詰まらない。窮しない。
なすべき事をすべてなして、もう万策つきても、決して希望を棄てない。
虐げられても、迫害されても、殴られても、投げとばされても、決して滅ぼされない。
そんな、ものすごくしぶとい、生きる力が充満して、尽きることのない生命力を、自分自身の奥深くにもっている。そういう人間に育てたい。
これは教育者の究極の祈りです。
こども自身の人格の最深部に、こういう確信が核心に存在している人間を育てるには、どうすればよいのか。
それは、神さま(イエス・キリスト)が、わたしの人格の最深部に、核心に、共にいてくださるという確固たる信念・信仰によって培われると。わたしたちは考えます。
それから、人格は、その人単独の存在をさしているのではなく、人格は隣人とのかかわりのなかでこそはじめて人格たりえる。
「虐げられても見捨てられず、迫害に会っても見捨てられない。」
どんな苦境に陥っても、神と人から見捨てられることはないという確信は、他者・隣人・神との関係への確たる信頼によって築かれています。
絶対他者からの見守りの確信。これほど強い生命力はほかにありません。
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人は単に学習する動物ではなく、悔い改め、やり直し、工夫し、学び、熟考し、踏みだし、前進してゆきます。
この成熟の過程が人生です。
この成熟には、独力でできることだけでなく、どうしても「隣人との交わり」というものが、触媒のように必要です。
成熟は、発酵です。
人格は、よき酵母によって、適切な「環境との交わり」によって熟成するのです。
幼児にとって、大人は成熟した人格者として登場してこそ、適切な人格的な交わり、環境との交わりと言えるでしょう。
わたしたち大人は、教育者として、また養育者として、幼児の周囲に、適切な触媒となるのです。
だから、わたしたちは、「吸収する心」をもつ幼児には、適切な「言語」をもって対峙するという役割を担っています。
この邪悪な世界には、残念ながら、幼児の人格成長にとって、不適切な「言葉」が氾濫している現実があります。
いやおうなしに、こともだちは、不適切な言葉も適切な言葉と共に吸収してしまいます。
それゆえ、幼児には、吸収した言葉を判断し、言葉を自在に、適切に駆使する聡明な良心が育っていなければなりません。
それゆえ、教育の根幹には、「聡明な良心」を養うという重大な目的との往還が必要なのです。
ところで、「聡明な良心」は、生まれながらに人間に備わっている訳ではありません。
アヴァロンの野生児の事例によってよく知られているように、人間は、その適切な人生の時期、すなわち幼児期に、適切な言語環境(人との交わり)なしには、高度な人格的な内言(こころのなかの言葉)・外言(外に発する言葉)を修得することができません。
もちろん、人間は、神によって創造された「神の似姿」(イマーゴ・デイ)として、被造者のなかで最も秀でた存在として、神の栄光を輝かせる存在ですから、潜勢力として、成長し、成熟し、完成すべき存在として生まれてきます。
しかし、この潜勢力(ポテンシャル)は、適切な環境との刺激の交流によって発現するのです。
神は、この適切な関係性を、「愛」だということを示されました。
愛は、神の存在から発出して、私たちにたえず注がれています。
神は愛なのです。神は愛の発出源であり、愛そのものとして、わたしたち大人を通して子どもたちに、適切な交わりを与え、「聡明な良心」を人格の中心に形成してゆくのです。
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極限的思考と日常的思考は、共に大切な思考のあり方です。
極限的思考とは、常に「死」を身近にしながら、「人間としての尊厳をもって生きるということはどういう生き方であるのか」を、自問自答しながら生きてゆくことです。
そういう究極の極限状況としての「死」を人生の日々のなかで、意識してゆく、そのとき、自ずから思考のあり方は、そうでない生き方とは違ったものとなるでしょう。
だから、「メメント・モリ(羅: memento mori)」(汝、死を忘るることなかれ)は、来世を夢想することなどではなく、死に限界づけられた「生」の意味をこそ、むしろ先鋭的に問うという意義があるのです。
日常的思考は、「死」を意識しつつ生の意義や尊厳を吟味しつつ生きるという根源的な態度も、日常的な些細な感情や、思いと、かけ離れているはずもなく、小さな出来事、微細なことばのやりとりや、受けとめという日々のありふれた、「平凡な生活Ordinary life」において、それは現れてくるべきであり、極限的思考は、日常生活のなかで、日常的思考のなかに自然と溶け合いながら現実化してゆくべきものでしょう。
極限的思考は哲学徒や思想家だけのものではなく、誰でもが、生きているこの日常的思考に反映されてゆくべきものでしょう。
カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した理由は、「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた。」とされています。
『わたしを離さないで』(わたしをはなさないで、原題:Never Let Me Go)は、クローン技術を手にした人類が、ある人の延命のために、「製造された人」を臓器を摘出するという目的のために、一定の期間、「飼育」するという閉鎖的環境のなかで、自らの運命を受け入れながら、「もの」としての生かされる少年少女の感情世界を描き出した作品です。
ここで描かれた世界はフィクションですが、根源的な意味においては、太古の昔から現実そのものでもありました。人をモノ、IT(ソレ)として扱う〈モノノミカタ〉は奴隷制や、現在も存在する人身売買において顕著と言わねばなりません。
わたしたちが、日常的に思考する、そこに溶け込んでいる極限的な思考を洞察するとき、わたしたち自身、わたしたちの子どもたちに、どのような生き方を、望んでいるでしょうか。「この生き方は果たして正しいのか」どうか、日々の小さな思考の連続のなかに、 〈考える人〉に、こどもたちを育ててゆきたいと、祈るものです。
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◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ>
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」 ルカ2章14節
最近、『ALWAYS 三丁目の夕日』を続編と共に、観ました。二度目でした。
一作目のなかで、芥川賞を目指す貧乏文士龍之介おじちゃんが、ひょんな事で同居するようになった10歳の淳之介少年のために、サンタのプレゼントを演出するというシーンがあります。
この淳之介少年は、時代設定として、ちょうど私自身と重なるので、この映画のシーンは、昔の生活感がスウっと伝わってくるのです。わたし自身がサンタのプレゼントの思い出を振り返ってみると、靴下を枕元に置いて眠ったなと思い出せるのは、小学校二年生頃でしたでしょうか。
子ども時代、わたしの家族は布団を出し入れする生活でした。
部屋の隅の一番端っこに布団を敷いて寝ることを好む子どもでした。
夏の暑い夜には、壁の冷たい感触を味わえるのは一番端っこだったし、カーテンの模様、それはクリスマスツリーのような樹木のデザインでしたが、それを眺めながら物語の空想に耽ることが楽しいこともあったからです。
クリスマス・イブにはサンタクロースが来ることが楽しみで、プレゼントにも胸を膨らませていたものでした。
淳之介少年が10歳と言えば、小学校4年生です。
そろそろサンタクロースが「お父ちゃん・お母ちゃん」ではないかと感づきはじめるか、もう感づいている年頃です。
映画の中では、一瞬ですが、淳之介はサンタクロースを信じていましたね。
彼は急いで家の外まで飛んでいってあたりを見回しました。
すると手を振って帰って行くサンタクロースを目撃するのです。(実は龍之介おじちゃんの演出だったんでだすけどね。)
「サンタクロースって嘘だと思っていたけど、本当だったんだ。」
淳之介少年は目を輝かせながら呟き、
「おじちゃん!サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれたんだよ!本当にサンタクロースっていたんだね。」、
「おお、そうか。何をもって来てくれたのかな?あけて見せてごらん。」
「うわああ、万年筆!どうしてボクが欲しかったものがわかったんだろう?」
確かこんな会話が続きました。
目をキラキラさせて喜ぶ淳之介少年を、微笑みながら見つめるおじちゃん。
つい泣けてしまうシーンでした。
神さまは、愛する人の喜ぶさまを観たいというこころを私たちに創造してくださいました。
神さまが創造してくださったわたしたち自身の、この「喜びの構造」は、偶然の積み重ねで進化してきたものなのでしょうか。
偶然にしては、あまりに手が込んでいますね。
神さまご自身がわたしたち人間が喜ぶさまを観て、実は喜びたいと願っておられるのではないでしょうか。
「喜びの構造」は神さまの願いに由来しているからこそ、わたしたちの愛の基本構造となっている。
わたしたち大人たちは、子どもたちに、この愛の基本構造への揺らぐことのない信頼感を、魂の奥底に育てる責任があると考えています。
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