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    キリスト教主義教育における神の像の提示について

    • 2012.02.02 Thursday
    • 18:13
     2月の聖句によせてを読んでの感想をいただきました。とても大切な事を指摘されたので、とても考えさせられました。
    それは自閉症のこどもにとっては、神さまという目には見えない抽象的な存在については、理解できないのではないかというご指摘でした。

     まさに、神さまは、具体的なイメージを持つこと自体を正確には禁じておられます。モーセの十戒の第一に違反してしまうのです。「無限は有限に入らない」と言うがごとくに、偶像崇拝の禁止命令によって禁じられています。私たちの認知とはそういうもの、具体的なイメージをもてば、すぐにでも偶像化してしまうのです。

     しかしながら、イエス・キリストが受肉され、被造者と同じ姿をもって、地上に降誕してくださったことによって、神さまは具体的に目に見える、手で触れる、人間の認知能力によって感じることができるお方となられました。

     イエス・キリストが神の像というのはそういう意味があります。
     けれども、もうひとつ問題があります。
     イエス・キリストは歴史的な存在として、確かに具体的存在としてあられましたが、二千年も昔のことですから、写真があるわけでもないし、肖像画がある訳でもありません。実際は想像するしかないのです。

     ただ想像だからといって、それが直ちに偶像にすぎないと言っていいのでしょうか。
    そうではありません。信仰によって、わたしたちが想像するイエスさまが、神の啓示の器もしくは乗り物として、抜擢されると信じることが許されているのです。

     大切なことは、その器とか乗り物としての「イメージ(像)」は、神の啓示として抜擢される時には、そこには神の力が働いて「奇跡」が起きていると理解する必要があるということです。

     自閉症児に限らず、キリスト教教育にとって、大切な使信は、人間は神さまによって存在へと呼び出され、存在を喜び、存在たることを通して神の栄光をあらわす神の器なのだということです。これは心理学の言葉に置き換えると「基本的信頼」と呼ばれている人格の中心を形成するビリーフ(信条)です。幼児期に無条件に愛されているという安心感、信頼感の海のなかで育つことが人には必要なのです。キリスト教の使信はまさにそれこそ内容としているのです。

     つまり、無条件に絶対的な神によって愛されているという確信が幼児期にいかに豊かに形成され得るかが後の人生にとって決定的な意味をもつと言ってよいだろうと思います。
     
     仏教の言い方をすれば、阿弥陀仏の本願とでも言うのでしょうか。詳しくはわかりませんが、絶対的な大いなる存在の慈悲・慈愛の懐に抱かれているという安心あっての立命でしょう。

     わたしたちは、こどもたちにこの安心の海のなかで、基本的な信頼を人格の核心の中に確固たるものを形成したいと願っています。

     そのためには、あの「奇跡」(すなわち、具体的なイメージが神の啓示の器・乗り物となるという奇跡)信じるのです。
     
     わたしは、幼稚園時代に持っていた聖書をいまでも忘れません。新約聖書です。100円だったかと思います。大事に大事にしていました。こどもには少々大きめでしたが、表紙にはイエスさまとおぼしき羊飼いが岩山をよじ登り、迷った子羊を探し出すというルカ福音書のたとえ話を題材にした絵が描かれていました。

     やや上空から岩山を下にむかって羊飼いは、岩の裂け目でおびえる子羊を上から手を伸ばして助けようとしている場面でした。この絵のイメージとたとえ話の物語のイメージとは重なって心に深く記憶されているのです。

     絵画や物語、場合によっては音楽、そのようなイメージやサウンドという情報が、神の像の提示となり得ると信じます。

     ホザナ幼稚園ではクラシックの頃に平安を与える曲を選びくり返し、生活の場面場面でながしています。それは生活のリズムを音感を通して体得してほしいとの願いがあるからです。
     ガーデンという言葉は、ガル・エデン、つまりエデンの園が語源だそうです。

     幼稚園はこどもの園という言葉を翻訳したものです。キンダーガルテン、つまりこどもの園です。その意味で神さまが人間にすべてのものを与えた楽園、エデンの園のような世界こそ幼稚園なのだと思います。


     絵画、物語(絵本・紙芝居など)、音楽などが神の像の提示になり得る。そう信じて、そのように環境を整備すること、そのことの全体が、「こどもの楽園」である幼稚園のあり方なのではないか、そう思いかつそう願っています。

     自閉症には具体的に、提示しなければわからない。そうであればこそ、さまざまな具体的な環境を通して、神の愛を、神の像を整備し、提示していきたいなと思います。

     
     
     最後に、神の愛を伝える神の言葉という「神の像」の提示としてふさわしい聖句を引用しましょう。

    この神の愛の宣言をくり返し反芻する時、心身に力がみなぎる体験をわたしたちは体験するでしょう。

    有名なヤコブの階段の場面で宣言される神の言葉です。

    「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
                                           創世記 28:15  

     
     
     
     


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    • 2019.03.19 Tuesday
    • 18:13
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      コメント
      以下は私見です。失礼がございましたら御海容願います。
      私はクリスチャン家庭に生まれ育ちましたが、「神」イメージはあくまでも「父」のイメージです。新約聖書だけではなく旧約聖書のお話も子どもたちに「神」イメージを伝える上では重要です。CSのカードではイエスさまの絵が描かれていました。この人を見て「神さま」とは思いませんでしたし、そう思ってはならないのです。ヨハネ14:9などはイエスご自身を「神」の姿として「見た」という教えではなく、イエスが「子」として、その「父」なる神との親しい交わりの内にいるということを意味しています。イエスがまさに「神の子」であることを読者が実感する時に、その「神の」の「神」も非対象的にイメージされているのです。つまりイエスは「神」の啓示者・体現者であるというより、「神関係」の啓示者・体現者なのであって、私たちはイエスの言動を福音書から示されることによって、その関係相手である「父」の慈愛を感じ取るわけです。それが「神」のイメージです。その「非対象性」は「抽象性」ではなく、子どもたちにも感覚として伝わり得るものです。私自身、そうでした。一度として、イエスの人としての姿を「神の姿」などと思ったことはありません。従って、子どもたちにイエスさまの絵などを見せて、それを神さまのイメージとして伝えることは信仰を養うどころか、誤った聖書理解に導くことになると思います。たとえ自閉症児に対してであれ無用なこと、ただイエスの「神の子」としての、その「子」として愛されていることを伝えればおのずと、その愛する「父」がイメージされます。イエス自身、放蕩息子のたとえなどで表現していることです。メタファーが重要です。「神」といえば「父」であり、イエスは「神の子」であって「神」とは区別されて然りです。子どもの時に教会の教義を刷り込むことには反対です。それをされると却って、あとあと矛盾を感じて入信できなくなったりする場合もあります。子どものうちは、聖書が示すように単純に、父と子の親子の関係で神とキリストとの関係を伝えたらよいです。聖書は、私たちがキリストに注目することを通して、自分自身もそのキリストに連なる「子」として、父なる神との関係の中に置かれていることを気づかせるのだと思います。
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