ホザナだより11月

  • 2017.10.31 Tuesday
  • 17:12

「ふたり、三人がわたしの名によって、集まるところには、わたしもその中にいる。」       マタイによる福音書18章20節

 

 「人間」という日本語は、関係存在を表示している言葉ですが、そもそも「ヒト」という存在は、単独では生存しておらず、その誕生から、終焉まで、関係存在なのであるという厳粛な事実を、またその存在の本質を表出していると言えましょう。

 

 

 

 幼児教育の主要な目的は、「ヒト」が関係存在として生きるということのために、いま与えられた諸条件のなかで、最善の環境を提供することにあります。

 

 主イエス・キリストは、この世に存在するという仕方を、神が選ばれたことにより、わたしたち人間と同じ姿をもって、この地上を歩かれました。それゆえに、神は、主イエス・キリストによって、わたしたち人間と同じ感覚をもたれた方として、わたしたちの隣に存在しておられます。

 

 

 わたしたちの痛みは、主イエスの痛みと同質の痛みであるので、神は、わたしたちの痛みを、ご自身の痛みとして、わたしたち自身の痛みをわたしたちと同じ痛みとして感覚しておられるのです。

 

 身体性をイエスという姿でもたれた神は、「ヒト」の痛みを、ご自身の痛みとして感覚されていたもう。この神の身体性こそ、受肉という事であり、この受肉という事こそ、「ヒト」が、身体が贖われる(贖罪=救い)根拠です。

 

 

 わたしたちの身体は、キリストの肢体によって贖われたがゆえに、「ヒト」は、神の肢体として、やがてはキリストに連なる枝々として永遠の生命を生きるようになる、これがキリストによる救いです。

 

  この教説は、キリスト信仰の概略です。

 

 実はこの教説を基礎として、幼児教育が始まっているのです。

 

 ただ子どもたちを育てるということは、特別な思想がなくても行われています。

 さまざまな、教育法が喧伝され、将来に不安を覚える親たちが早期教育や、スパルタ式のシゴキ教育に幻惑されるのは世の常です。

 

 

 しかし、本来の幼児教育は、そのような動機から創められたものではありません。

 

  世界最初の保育所は、牧師ジャン・フレデリック・オベリンによって、幼稚園は、フレーベル(牧師の息子)によって始められました。幼児教育の祖と言われるペスタロッチもキリスト者です。

 

  このように、幼児教育が創められる根本動機は、こども自身を、「神によって創造された尊い一個の人格存在として、他者との関係性を獲得してゆくために環境を整える」ということでした。

 

 

 主イエスは、「ヒト」と「ヒト」との「あいだ」には、「ヒト」を越えた超越者が存在し、超越しつつ、「ヒト」と「ヒト」のそれぞれの「個」にも、内在しているのだということを、生涯をとおして学んでゆくべき課題(賜物)として示されたのです。

 

  この課題には、特定の宗教の区別などありません。万人にとって、この課題は真実なのです。 

 

 

 

JUGEMテーマ:建学の精神

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