2月の聖句によせて 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」コリント僑款錬隠言

  • 2017.01.30 Monday
  • 02:02

2月の聖句によせて 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」コリント僑款錬隠言

 

 こころは存在します。こころの動きは、表情、言葉、ふるまいなど外側に現れ出てくるものによって観ることができます。

 

 しかし、「これがこころです」と言って、取り出して見せることはできません。

 

 脳内でこころが働いているのかもしれませんが、それを部分として取り出すということは、できないので、観ることができないのです。

 

 それで、目には見えないこころの中で思っていることと、目に見える外側に現すこととを、ことさら変えるという器用なことも、人間にはできてしまいます。

 

 「面従腹背」(表面では服従するように見せかけて、内心では反抗すること)というような心の態度は、その典型です。

 

 「面従腹背」のような心の態度とは、つまりは自分の本心を隠して、他者を欺くことですので、偽りの態度ということになります。

 

 どこまでも他者には、本心を隠し通し、目に見える外側では偽りの仮面をかぶりつづけなければなりません。

 

 このような偽善的態度(善では無いことを善と騙すこと。上辺だけ良いことだと見せかけること)は、隣人との信頼の関係を築くことを困難にするでしょう。

 

  こどもには、このような器用なことはできません。

 

  こどもは、こころに思うことが、外側に正直に表出します。

 

  だからこそ、主イエスは、こどものようなものでなければ神の国を観ることはできないと言われました。

 

  表裏のない正直なこころを神は愛されます。

 

  わたしたちもそのような率直な態度を愛します。偽りの仮面によって欺いていることが判れば、人は裏切られたと感じます。そこには嘘があるからです。嘘は人と人との関係を破壊します。

 

 そえゆえに、古来、あらゆる宗教や道徳は、「嘘をついてはならない」という戒めを、人間倫理の根本として教え続けてきました。

 嘘を1度つくと、その嘘を糊塗(一時しのぎにごまかすこと。その場をとりつくろうこと。)しようとすれば更に嘘を重ね、やがて雪だるまのようにふくれあがります。そして必ずその嘘は明らかにされます。

 

 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(マルコ4章22節)

 

 幼児期に、この「真理」を魂の奥底に届くまでに浸透した人は、生涯の宝を得ることになるでしょう。

 

 人のうわべを観て判断しない。むしろうわべに現れてはこない眼には見えない本質を見きわめる、見定める、深くて広い、「ものの見方」を養うことは、なんぴとにとっても大切な事柄です。

 

 眼には見えない事柄にこそ、眼を注ぐこと。

 

 信仰的なものの見方とは、そういう日常的感覚のさらに深い世界を洞察することですが、それは既に幼児期に、その基礎が養われるのです。

 

JUGEMテーマ:建学の精神

コメント
コメントする








    

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM