◆6月聖句によせて 「見よ、それは極めて良かった。」      創世記1章31節

  • 2016.06.01 Wednesday
  • 17:21
◆6月聖句によせて   「見よ、それは極めて良かった。」      創世記1章31節
 最近、菅直人第94代内閣総理大臣の講演を聴くことができた。
「多くの人々が、あの福島第1原発事故の時に、一生懸命頑張ってくれた。それは実に感謝なのだが、皆が頑張ってくれたから、最悪の事態を免れたとは、残念だが言えない。あのとき、最悪の事態を学者にシミュレーションさせた。結果は福島第1原発250匏内には、もう人は住めなくなる、五千万人のすべての人が避難しなければならない事態になるというのだった。その最悪の事態を免れることができたのは、まことに、幸いな偶然が、いくつもいくつも重なったからであった。実に神の御加護としか言えない偶然が重なったからでした。」

 菅直人さんが、自分もまた、あの事故が起きるまでは、「原子力ムラの人々」が語る「安全神話」を信じ切っていて、世界中に「安全な日本の技術力」を売り物に原子力発電所輸出のためのトップセールスをしていたと、ご自身の罪を認め、しみじみと「」脱原発」しか日本、世界の未来はないと語られました。

 わが国が最悪の事態を免れることができた、そのいくつもの偶然(神の御加護)のひとつは、菅直人さんが首相だったからだなと、わたしは思いました。菅直人さんは東京工業大学で物理を学んだ科学者であり、かつ法律の専門家である弁理士なのです。原子力発電所の仕組みを知っていた希有な政治家なのでした。

 この夏に、菅さんや枝野さんをはじめ、すべて実名であの3・11後の5日間に起こった出来事を再現する映画『太陽の蓋』が公開されます。ぜひ観たいと思います。

 わたしは、菅さんが「いくつもの偶然」と呼んでいた不幸中の幸いとも言うべき「偶然」を「神の御加護があった」と表現せざるを得なかったこの事実を、重く受けとめたいと思います。2度と、あのような事故を起こさせてはなりません。あの事故は、未曾有の天災であったけれども、被害を甚大にしたのは、「原爆が落ちても大丈夫」と言っていた原発が、全電源喪失というあっけない事態だけで、メルトダウンしたという意味で、あきらかに人災でした。

 創造主なる神さまは、全人類に、良き存在として、この世界・全宇宙を創造し給うたと聖書は宣言しています。そしてこの世界を、人類にむかって、管理すべく委任されました。しかし、原子力を手にした人類は、これまで世界に自然状態では存在しないはずの恐るべき放射能というものを造りだして、世界を大きく改造し出しました。

 ところで、奇しくもヨハネの黙示録には、「ニガヨモギ」の予言が記されています。
ヨハネの黙示録8章10節〜11節
第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。 この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。

 ニガヨモギはチェルノブイリ(ウクライナ語ではチョルノブイリ)周辺に自生するヨモギで、地名の由来となったオウショウヨモギ(チェルノブイリ)の近種です。チェルノブイリ周辺は今でも人が住むことを禁じられています。

 神さまが創造された世界を、正しく管理する使命を委任された人類は、管理どころか自然界には存在しない恐ろしい物質で、世界を汚染し続けています。

 「神の御加護」によって、一命をとりとめた私たちは、本来の使命を果たすべきではないでしょうか。子孫のために、豊かで安全な世界を取り戻し、環境を整える役目を、おとなたちは担っているのではないでしょうか。

 神さまが、ごらんになって、「それはきわめて良かった」と言われる世界を、再び取り戻す責任が、わたしたちにはあるのではないでしょうか。

































 
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2015年 5月の聖句 「初めに、神は天と地とを創造された。」 創世記1章1節

  • 2015.06.12 Friday
  • 00:03
  1966年というと、わたしは小学校4年生だったということになります。
 映画『天地創造』(原題は、ずばり『ザ・バイブル』)はロードショーを観に行きました。
 入場記念に「ヨハネによる福音書」の分冊をいただき、とても嬉しく、最初のページを何度も読み直していました。

 この映画、子どもごころに深い印象を残した作品です。
 
 アブラハムの天幕を訪れる三人のみつかいが、みな同じ顔で、言葉を語るときにだけ、顔が浮かび上がってくるシーンや、バベルの塔などの物語などはこころの原風景を形作っているといっても決して言い過ぎではありません。

 いつしか、わたしは、聖書を読むことが大好きな少年になっていました。

 お祈りの本(『朝ごとに、夕ごとに』(C・H・スポルジョン))を買ってもらい毎朝、毎晩読んでいました。こどもにはなかなか難しいものでしたが、くりかえし読みました。

 
「はじめに、神は天と地を創造された。」創世記1:1
 
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ヨハネ1:1〜3
 
 ふたつの、この聖書の言葉は、いずれも、宇宙の創造主による「創造のみことば」です。

 この言葉をなんどもなんども読み、そらんじてもなお、くりかえしあじわうという読み方を、わたしは少年時代に経験できたことは、わたし自身の人格を確実に形成してきたとしみじみと思います。

 
 どんなに小さい存在も、神がつくりたもうた存在であり、何一つ神さまが見守っていないものはないのだなあと感じる心が育まれました。またどんなに大きな存在でも、それもまた神さまがつくりたもうた存在であり、神さまがおさめていらっしゃるのだなあと確信しています。ありとあらゆる存在するものは、すべて神さまが創造したもうたものであり、美しい存在なのだという思いが養われました。
 
 ホザナ幼稚園の幼いお友だちに、すべての存在を創造されたまことの神さまをいつもいつも身近に感じながら、この愛の神の懐にあって「基本的信頼」(エリクソン)感に充ち満ちた子どもとなってほしいと、日々祈っております。

 
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2015年主題聖句 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

  • 2015.04.03 Friday
  • 22:46
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
             マタイによる福音書5章9節
4月主題聖句 「主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
              ガラテヤの信徒への手紙1章3節
  主イエス・キリストは、いったいぜんたい何が一番幸福なのかということを、深くて、明解なお言葉によって示されました。

 すなわち、平和を作りだすということが、幸福だというのです。

 「しあわせだなあ。ぼくは君といるときが一番幸せなんだ。いいだろう?」

 この有名なアドリブは、わたしが大好きな若大将加山雄三の言葉です。

 ここで語られる「幸せ」というのは、「共に生きることの幸せ」だと思います。

大好きな人といつまでも一緒にいたい、この時間がずっと続くといいなあ・・・、こういう感覚を幸せというのでしょう。

子どもたちには、こういう時間が当たり前の時間であるべきではないかと、わたしは考えています。

 子どもたちが、あたたかなひざしのなか、木陰で草の上に座って夢中になって絵本を読んでいる。
そのうち、その子はまどろみはじめ、傍らの子犬も船をこぎ始める。
 そういうゆったりとした時間は、「守られている」ことを当然のこととして享受しているからこそ生まれます。

 大人は、こどもたちに、このゆったりとした幸せに満ちた環境を作りだし、守り抜く責任があります。それこそが大人の幸せなのではないでしょうか。

  現代のこどもたちは急がされています。大人の都合でこどもをはべらせてはいませんか。

  子どもはこどもの時間を生きています。その速度は大人よりも遙かに速いです。

 こどもの一年は大人の10年にも匹敵するのではないでしょうか。

 子どもたちは、ものすごいスピードで環境を吸収しています。

 だからゆったりとしたあのまどろみの時間にもものすごい勢いで成長を遂げている。

 だから、こどもから観れば、一日はものすごく長い。

   いま、このときはこどもたちにはかけがえがありません。

 この時期に現れる「敏感期」を見逃すことのないようお子さまをじっとよく観察してください。

 そして適切な関わりを模索してください。

  家庭こそ最良のモンテッーリ教育の場です。     
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2月の聖句によせて「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」汽灰螢鵐箸凌徒への手紙12章31節

  • 2015.02.06 Friday
  • 21:51
 ◆聖句によせて
「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」 汽灰螢鵐箸凌徒への手紙12章31節

 信仰の世界は、神さまの恵みをいただき、いっさいを神さまにお委ねして生きる世界です。

 それは一見、受け身の消極的な生き方のように見えるかもしれませんが、実はそういうことではないのです。

神さまからいただいた「いただきもの」つまり「賜物」を、さらにさらに受けられるように、熱心に努力するという積極的な生き方をあわせ持つのです。

 この聖書の言葉は、まさに、「努力」とか「精進」とか、「鍛錬」とか、そういうたゆみない修練を、勧めています。

 これは、最初しばらくは、苦痛をともなう場合もあるものですが、鍛錬や修練は、それを積み重ねてゆくにつれ、わたしたちの人格のなかで、豊かな喜びをもたらし、やがて人格の一部となってゆくのです。

 わたしは、持病を抱えていてこの年末から年始にかけて、随分と辛い毎日を過ごしていました。ついに病院へ出かけて、処方箋をいただきました。指導を受けて、その日から、指導の通りにしたいと努力し始めました。

 高校生の頃の部活を思い出しました。そして、元気になった自分を頭に描いて、それに向かって進もうと思ったのです。いきなり無理なことは禁物ですから、スモールステップを少しづつ歩んでゆきます。おかげで体重も10キロほど落ちて、歩行も楽になりました。集中力ももどってきました。

 目標を立てて、そこに向かって努力を重ねるということの大切を思い出したのです。

 NHKの『仕事のプロフェッショナル』で、ラグビー日本代表のヘッドコーチ、エデイー・ジョーンズ氏のことを知りました。世界のラグビー界では、体格も小さく経験も少ない日本のラグビーを世界ランク9位にまで育て上げた人です。その練習方法は早朝から夜半まで、ぶっ通しで試合形式の練習をし続けるという過酷なものでした。世界でもっとも過酷な練習だと、忍耐力のある日本人しか耐えられないと、エデイー氏は語ります。

 この練習を尊敬の念をもって、わたしは選手たちを見ていました。

 還暦をすぎたわたしには縁遠い運動ですが、グランドを力強く走り回り、ぶつかり合う姿に、心から感動しました。

 「わたしも体を動かしたい」そんな気持ちを喚起されました。

 神さまが与えたもう、身体を鍛える、心を鍛える、知性を磨く、そのために不断の努力を積み重ねること。

 このことの素晴らしさを、ひとりひとりのこどもたちのなかに育みたい。

 自分の内部から、動機づけられた意欲をもつ子どもたちに育てたい。

 心から、そう思いました。

11月の聖句によせて  「大地は作物を実らせました。」    詩編67編7節  

  • 2014.10.29 Wednesday
  • 15:22
 
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 ペルー・標高4500mの村での暮らしを描く番組を観て感動しました。富士山より高いところで暮らしている人々です。子どもらは午後2時に学校を終えると、両親が耕すジャガイモ畑に走ってゆきます。酸素が薄いのに全然平気、笑顔です。こういう子どもはきっとマラソンが強くなる。山の斜面の畑には何十種類ものジャガイモが栽培されていて、村人の主食になります。ジャガイモの原産地はアンデス。やがてヨーロッパ、アジアへと伝わってゆきます。富士山より高いアンデスの山々、森はもう形成されていません。そんな高地の谷間に30家族くらいがビクーニャの毛を刈り、アルパカを追い、ジャガイモを育て暮らしています。日本でのわたしたちの生活ってなんだろうって考えてしまいます。こういう原点みたいな生活を、わたしたちは忘れてはいけないと思います。

  イギリスのダニエル・デフォーの『ロビンソン漂流記』は、無人島で、独力で暮らしを立ててゆく姿を描いていますが、 マックス・ウェーバー、大塚久雄などの学者にも採りあげられている人間精神と経済の関係を考える上での格好のモデルとされています。

   絶海の孤島で、一人で生きてゆくとしたら、どうやって生きてゆくでしょう。自分の身にそういう状況が生まれたらどうでしょうか。環境との関わり、時間との関わり、すべては真剣な見通しのもとで、知恵をしぼってゆくしかありません。

   倉本聰氏は、北海道富良野で暮らし始めた頃のお話をしていました。「何もかも自分でしなければならない。都会暮らしの頃は、すぐお金をつかって誰かに頼む事しか考えなかった。でもここでは違った。ある時、ものすごく大きな岩があった。なんとかどかさないと道が通らない。ダメだと思った。とても無理だと。地元の若者に聴いた。『君なら、どうする?』と。すると若者は、『やるしかないならやるよ』と言い放って、岩の周りの土を掘り始めた。そして何日も続けるのです。この違いです。知恵というのは知識とは違う。これが知恵だと思った。」

   ジャガイモはやがてヨーロッパにわたり、雑穀と麦しかなかった国々の食糧難を救いますが、疫病が蔓延し、ジャガイモが全滅してしまいました。大勢が餓死しアイルランドでは人口は半減しました。この「ジャガイモ飢饉」を経て、200万人がアメリカ、カナダ、オーストラリアなどへ移住します。多くの餓死者を出してしまった原因は、ジャガイモについての防疫対策がなかっただけでなく、経済の失策でした。

  大地は作物を実らせます。実り豊かにするためには伝聞の知識ではなく、見通しをもった知恵、持続する志が必要です。ロビンソンの合理性、アンデスの感性、富良野の知恵・・・・・。神さまが与えたもう大地との対話を忘れずに今日を生きる。たくましい子どもたちに育ってほしいと日々祈ります。

10月の聖句によせて 「わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。」 詩編139編4節

  • 2014.10.07 Tuesday
  • 23:09
「わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。」 詩編139編4節

 昔から、「お天道様(おてんとうさま)が見ているよ。だから悪いことはしてはいけないのよ。」と、特に信心を自覚的にしているいないにかかわらず、親はこどもに言い聞かせてきました。

 よいこと、わるいことの区別・判断がつくということは、社会人として身に付けておかねばならないことです。ところが、現代日本は、モラルの混乱があるように思われてなりません。

 こどもの安全を第一に考えるべき教育者として原発建設を問うた山口県上関町立祝島小の前校長、山本英二さん(53)は、悩んだ末に辞職せざるを得ませんでした。(子どもの安全、原発問い 校長 辞職で検索するとヒットします。)

 大人の責任として、こどもたちが安心して安全に生きて行ける社会を築きたいし、子どもたちには責任を担う大人になってほしい。こどもたちに、社会規範をしっかり身に付けさせてやりたい。これはわたしたち共通の願いではないでしょうか。

 全宇宙の創造者なるまことの神を信じること。
 全知全能なる唯一なる絶対者を信じること。
 わたしたち自身より、わたしたちを知り尽くし、わたしたち自身が知り得ない、隠れたる事柄を知り尽くしておられる神を信じること。
 さらに言えば、そのようなまことの神さまは、わたしたちには永遠に知り尽くすことは不可能な方であり、わたしたちにはどこまでも、「知られざる神」であられます。

 わたしたちは、そのお方を「既に知っている」とは言えませんが、
 そのお方は、わたしたちの現実のただ中において、常に、その存在のしるしを、わたしたちにお示しになられます。

わたしたちの舌が、まだ一言も語らぬ先に、神さまは、すべてを知っておられます。

わたしたち自身が知り得ぬ事柄を、すべて知っておられます。

そのお方の見守りのなかで、わたしたちは、何をなすべきか、なさざるべきか、そのお方の示すみ声に従う生き方を、こどもたちに生きていってほしい。  

   
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★8月の聖句によせて 「あなたがたも愛によって歩みなさい。」 エフェソの信徒への手紙5章2節

  • 2014.09.03 Wednesday
  • 11:39
★8月の聖句によせて   「あなたがたも愛によって歩みなさい。」  エフェソの信徒への手紙5章2節
 「愛によって歩む」ということは、「愛」が、自分自身の内部から湧出するということであるよりは、「愛」は、「私」自身の外側にあって、絶えず「私」を「愛」で満たし続けてくれる「力」であるというべきではないでしょうか。


 「私」とはやっかいなもので、いつも利己的な欲望にまみれていて、とてもとても「愛」に溢れているというような存在ではありません。だから、「愛によって歩みなさい」と言われてみても、自分自身には「愛」がないことを痛感している・・・・、という具合ではないでしょうか。

  わたしたちは、むしろ愛されていることを知ってはじめて、愛する喜びへと押し出されるのではないでしょうか。

 神は愛です。神が愛なのです。

 わたしたちは、神さまによって愛されています。この事実を知ることによって、わたしたちは神さまから既に愛されている存在なのだという現実に気付く事ができます。

   愛されていると、その存在は美しくなります。輝くようになります。


 わたしたち自身が、神さまからこよなく愛されている現実のなかで、生命を息吹を輝かせるなら、わたしたちは愛さずにはいられない者へと変えられていることしょう。


 はじめての孫と会うとき、いつしかその孫を産んだ娘を育てていた自分に戻っている自分を見いだします。孫への愛は娘への愛と重なってきます。さらに、その眼差しは母が「私」を育ててくれた愛の眼差しだということも。


   そしてそれはさらに、祖父母からの愛の繋がりだということも感じられてきます。


 この愛の眼差し、見守りは、愛そのものであられる神さまから起源して、「私」へと注がれ、そして我が子、孫へと繋がってゆく・・・・・。


   この愛の連鎖のなかに、「私」もいるのですね。


 いま、このとき、神さまの愛を運ぶ者として、こどもたちを見つめましょう。


 そうすれば、「愛」は、かならずこどもたちの魂の深部を形成し、「愛」の人格者を形作ることとなるでしょう。

2014年7月 聖句によせて

  • 2014.07.02 Wednesday
  • 17:13
◆聖句によせて  「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」                              マルコによる福音書10章14節  

グローバリズム、規制緩和などの経済政策によって日本全体が低成長の時代に入りました。


 若者たちの貧困、女性の貧困、超高齢社会、一人勝ち、勝ち組、金融工学・・・。人々は不安のために競争する力を持ちたいという観念に強迫されています。


 どうなのでしょう。競争で勝ち抜くことが大事なのでしょうか。


 わたしたちの生きるモデルはどこにあるのでしょうか。


 二千年前の中東の一角では、子どもは被差別の扱いを受けていました。


 人を数える時には、女性と子どもは員数外でした。


 子どもは弱者ですから、戦争でも災害でも、まっさきに犠牲を強いられるのは子どもです。


 日本の子どもたちは貧困下に置かれている言われています。  大阪では問題行動を起こす子どもを隔離すると言います。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。


 本当の意味でこどもを大切にしていないのだと思います。


   ホザナ幼稚園の子どもたちを、どう育てたいか。わたしたちのモデルは主イエス・キリストです。

 イエスさまは、差別されていた子どもを、ひとりの大切な人間としてみつめておられます。  大人の都合で子どもを動かそうとはされませんでした。

 子どもが、神さまにとっても人にとっても尊い存在であり、愛されるべき存在であり、大切にされるべき存在であることを、身をもって示されたのです。


 子どもたちが、その心から「やりたい」、「やってみたい」、「なんだろう」、「なぜかしら」、「何やっているの」、「自分でやりたい」・・・・・、とわくわくしながら願うことがある。

 それは神さまが与えた賜物としてどんな子どもにも与えられています。その賜物を、まずはわたしたち自身が心から信じましょう。

 子どもを大人の都合で枠にはめるのはやめましょう。


 子どもは大人より秩序が大好きです。その秩序への愛を妨げるのは大人の都合です。  大事な事を大事だと伝える真剣なまなざしは子どもの心に秩序の大切さを刻みこみます。


 そのためには大人は秩序の体現者となる必要があります。


 こどもを大切にする社会は、大人を成熟させるのです。


 子どもたちに最善の教育をしたい、そのために互いに努力を続けましょう。

1月の聖句によせて

  • 2014.03.05 Wednesday
  • 19:45
◆聖句によせて 「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」
                              エフェソの信徒への手紙4章16節  
 ここで聖書が語っているのは、キリスト者共同体とは、あたかも一個の人格をもった身体だということです。

 人と人とが織りなす共同体は、キリストという人格の肢体(からだ)なのだと言うのです。

 これは比喩表現ですが、社会すなわち人と人とがかかわり合いながら共に生きているという事態を、神のひとり子なる神=イエス・キリストの肢体(からだ)と対応させているのです。

  この対応関係を、類比(アナロジー)と呼ぶことができるでしょう。
   ひとりひとりの人は、キリストの肢体のどこかしらの「部分」としての賜物をいただいており、その「部分」としての働きなしには、「全体」としての肢体も十全な働きをなすことができない。  どんな個性の持ち主も、その人に固有な神さまが与えた賜物があります。

 人はその賜物を活かし、何十倍、何百倍にも花咲かせ、結実させることを、神さまより望まれています。

 そしてそのことによって他の人と結びあい、「全体」としての社会=キリストの肢体を造り上げてゆく存在だというのです。  人と人とが互いに結び合う力、それこそ神の与えたもう「愛の力」です。神の愛の力によって、人は互いに、必要な存在として求め、与え、結び会い、キリストの愛を実現する社会を形成してゆく・・・・。聖書はこのように人と人との交わりをイメージしています。    このような社会を作り出せたら、どんなにかよいでしょう。

 キリストの人格と相似た人格を、一人ひとりが造り上げ、キリストの肢体と相似た社会を造り上げること。まるでユートピアのような比喩ではないですか。けれども人類が目指している社会がこのような社会であることは間違いのないことだと、私は信じます。

 子どもたちを、キリストの香りに満ちた愛の人格者になることができるように、祈り導くことは、わたしたち大人の責任です。

 共に、この崇高な目標をたえず見上げて歩んでいきましょう。
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★8月の聖句によせて 「あなたがたも愛によって歩みなさい。」エフェソの信徒への手紙5章2節

  • 2013.08.27 Tuesday
  • 09:10
 「愛によって歩む」ということは、「愛」が、自分自身の内部から湧出するということであるよりは、「愛」は、「私」自身の外側にあって、絶えず「私」を「愛」で満たし続けてくれる「力」であるというべきではないでしょうか。  「私」とはやっかいなもので、いつも利己的な欲望にまみれていて、とてもとても「愛」に溢れているというような存在ではありません。だから、「愛によって歩みなさい」と言われてみても、自分自身には「愛」がないことを痛感している・・・・、という具合ではないでしょうか。 わたしたちは、むしろ愛されていることを知ってはじめて、愛する喜びへと押し出されるのではないでしょうか。  神は愛です。神が愛なのです。  わたしたちは、神さまによって愛されています。この事実を知ることによって、わたしたちは神さまから既に愛されている存在なのだという現実に気付く事ができます。 愛されていると、その存在は美しくなります。輝くようになります。  わたしたち自身が、神さまからこよなく愛されている現実のなかで、生命を息吹を輝かせるなら、わたしたちは愛さずにはいられない者へと変えられていることしょう。  はじめての孫と会うとき、いつしかその孫を産んだ娘を育てていた自分に戻っている自分を見いだします。 孫への愛は娘への愛と重なってきます。さらに、その眼差しは母が「私」を育ててくれた愛の眼差しだということも。そしてそれはさらに、祖父母からの愛の繋がりだということも感じられてきます。  この愛の眼差し、見守りは、愛そのものであられる神さまから起源して、「私」へと注がれ、そして我が子、孫へと繋がってゆく・・・・・。この愛の連鎖のなかに、「私」もいるのですね。  いま、このとき、神さまの愛を運ぶ者として、こどもたちを見つめましょう。 そうすれば、「愛」は、かならずこどもたちの魂の深部を形成し、「愛」の人格者を形作ることとなるでしょう。

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