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    2019.聖句によせて  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書28章20節

    • 2019.03.15 Friday
    • 23:52

    JUGEMテーマ:建学の精神

    「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 マタイによる福音書28章20節 

     

     主イエスさまは、十字架上で、わたしたち人の罪を贖うために死なれました。わたしたちが父でありたもう神さまと離れてしまったので、わたしたちはすべてだれひとりの例外なく、神さまと隣人を愛することができず、むしろ憎む心を受け継いで生まれてきたのです。

     

     本来は、神さまの子どもとして、神さまの愛を受けて、神さまを父として愛し、神さまの愛の体現者として生まれてくるはずでしたが、人類の始祖アダムとエバは、神さまの戒めを破り、楽園から追放されてしまったからです。

     

     それで、神さまが創造された世界は、天国(神の支配という意味)から地獄へと変わり果ててしまいました。そこに住んでいる人は神の支配ではなく、自己中心的な自我を神の座にしているので、世界は変わり果ててしまいました。この生き地獄のような世界を神の国(神の支配=天国)へと、再び創造するために、主イエスはお生まれになりました。主イエスさまは「インマヌエル」(神われらと共にいますという意味)と呼ばれるであろうと、天使ガブリエルはマリアに告げ知らせましたね。

     

     イエスさまは、神さまから離れてしまい、自分を神とする傲慢な人を再び「神の子」として再創造するために、人の罪をなきものとする「贖罪の犠牲」となり、ご自身をお捧げになられたのです。人が受けるとしたら、滅びるより他はない「罪」(神さまと離れていること)の懲罰を、ご自身を「犠牲の子羊」として捧げ、神の独り子なる神でありながら、神なき世界(神を喪失せいた世界=陰府)へと降って行かれたのです。

     

     しかし、主イエスは、三日後に、死の世界(神なき世界)からよみがえられて、復活者イエスとして、人類の前に現れてくださいました。そして40日間、500人以上の人びとと共に寝食を共にして、ついに弟子たちの見ている目の前で、天へと昇って行かれました。

     

     「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というみことばは、よみがえられた主イエスさまが、天へと昇り、父なる神の右に帰られる際、聖霊なる神として再び人類と共に存在してくださることを約束してくださったみことばです。それゆえに人は、「聖霊よ、来て下さい。」Veni Sancte Spiritus ヴェニ・サンクテ・スピリトゥスと祈るのです。

     

    2018年10月聖句によせて 「わたしは植え、アポロは注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」    

    • 2018.10.01 Monday
    • 22:34

    ◆聖句によせて 「わたしは植え、アポロは注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」    

                                                     コリントの信徒への手紙毅馨錬鏡
     わたしたちは、数え切れないほどに多くの人々の「おかげ」をこうむって生きています。どんなにあがいても、自分が生まれてくる場所や環境を自分が選んで生まれてくるという選択肢をもって生まれてくることはできません。わたしたちは、それを運命とか宿命とかの言葉で表現せずに、神さまの意思によって生まれて来たととらえます。何かの法則とか、定めとかではなくて、創造者なる神さまの明確な意思、決断が、ひとりひとりに注がれているし、いま、この瞬間も神さまの見守りのなかで生きている、そう世界をとらえています。

     

     今日、誰と出会い、どんな会話をして、どんな気持ちになるか。それもこれも神さまの見守りのうちに、私たちは、神さまの願いを浴びながら生きている。


     出会いさせていただく人々、大人たち、お友だち、お店の人、幼稚園の先生・・・。こどもたちの出合う環境世界は、神さまのはかりしれないご計画、御意志によって、わたしたち(こどもたち)に備えられた恵みの世界です。


     この素晴らしい出会いによって、わたしたち(こどもたち)は、着実に、ひとりひとり、それぞれに「成熟」「成長」が心身に生起しています。この毎日の微妙な変化に、静まって目を凝らし、耳をすませて、思いめぐらしましょう。この日々変えられている「成長」の徴を喜びましょう。この喜びを喜び、神さまへの賛美としましょう。


     使徒パウロは、神の愛の福音を全世界の人々に伝えましたが、実際には出合った一人一人に伝えたのです。伝えられた人がまた他の人に伝えて、世界に神の愛の福音は伝わって、人類の生きる支えとなっています。しかし彼は、「わたしは植えた」と言い、そして「アポロは注いだ」と加えたのです。彼は、愛の福音が伝わってゆく力の根源は、決して自分の能力によるものとはしなかったのです。

     

      出会う環境世界のすべては、神さまが備えてくださっている。

     

     多くの人びとが、わたしたち(こどもたち)の「成長」を促してくれている。

     

     この環境世界(神さまに用意された世界)への揺るぎない信頼感が、人格を豊かに「成長」させてくれると考えたのです。

     

     さらに肝心な事は、わたしたち(こどもたち)自身が、実はどのような苛酷な環境に出会っても、それを自分自身を高み・深み・広がりの世界へと導くものとして昇華させる力(生きる力)を、神より賜っているのだという「自己」を信じることでもありました(自己肯定感)。

     


     自己をとりまく環境世界への信頼、自己自身への深い信頼、自己肯定感に充満した人格形成こそ、私たちの目標です。信頼こそが信仰なのです。

     

     

    JUGEMテーマ:建学の精神

    2018年9月 聖句によせて 「ザアカイは急いでおりてきて、喜んでイエスを迎えた。」

    • 2018.10.01 Monday
    • 22:29

     ◆聖句によせて   
      「ザアカイは急いでおりてきて、喜んでイエスを迎えた。」
                        ルカによる福音書19章6節
      背が低かったザアカイが、イエスという青年を一目見たいと、木に登って、イエスを盗み見ていたところ、青年イエスは気がつき、見上げてザアカイをご覧になり、今日は、あなたのところに泊まりたいとおっしゃった。
     ザアカイは喜んで、イエスを家に案内してもてなした。
     そういうイエスとの邂逅の出来事ですが、このなんの変哲もないような出会いの出来事から、無限の神の愛を感じとり、多くのキリスト者は神と人を愛するエネルギーをくみ上げてきました。
     ザアカイは、社会的に疎外された立場の人であったと想像されています。
     裕福とまではいかなかったとしても客人を宿泊させるに足る部屋とか食事の用意とかが可能な社会層ではあったようですが、人間関係においては、彼に道を譲ったりする同情をかけてもらえるような人物でもなかったようです。人知れずにイエスを樹上から見るほかないという事情は、彼が置かれていた状況を想像させます。
     そのような彼の自己感情は、自己肯定感が低い多くの人々の自己感情とつながってきます。それは、「自分のようなものは神さまの愛に値しない存在なのだ」という自尊心が傷つけられたこころの状態です。自分が尊い存在なのだという、自己肯定感を充分にもつことができていない状態です。
      被虐待、自主的選択の機会を奪われる、無条件に受容された経験が少ないなどにより、おそらくザアカイは、苛烈な競争、身分差別、身体的な特徴を揶揄されるなどされて心に傷をもっていたのではないかと思うのです。「こんな自分は、神と人から愛されるような存在ではないんだ」  という、傷ついた心です。
     イエスという青年は、このザアカイの傷ついた魂を、敏感に感じとり、声をかけられたに違いありません。神さまは、愛を求めて傷ついた魂を救い、共にとどまられる方だということを、この出来事は指し示しています。だから、この逸話からは、無限の神の愛がくみ取られてきたのです。

    JUGEMテーマ:建学の精神

    2018.7月 聖句によせて 「主よ。・・・わたしたちにも祈りを教えてください。」

    • 2018.07.05 Thursday
    • 17:01

    JUGEMテーマ:建学の精神

    ◆聖句によせて
    「主よ。・・・わたしたちにも祈りを教えてください。」

                            ルカによる福音書11章1節
      What a wonderful world!から

     

    I hear baby's crying and I watched them grow
    赤ん坊たちが元気に泣いている 彼らが成長するのを見守るんだ

     

    They'll learn much more than I'll ever know 
    彼らは 私よりもずっと多くのことを学ぶだろう

     

    And I think to myself
    そして 心の中で思うんだよ

     

    What a wonderful world.
    なんて素晴らしい世界なんだろうって

     

    Yes, I think to myself what a wonderful world. 
    そう 心の中で思うんだよ

     

    What a wonderful world.
    なんて素晴らしい世界なんだろうって


    「苦しい時の神だのみ」といいますが、神さまへの祈りは、苦しい時だけにではなく、嬉しい時にも、楽しい時にも祈るでしょう。


       What a wonderful world!と「自分自身の心の中で思うんだよ」と、歌っているけれど、

     

    この歌は、「輝きに満ちた祝福された日」とか、「暗くて神聖な夜」とか、

     この世界が神さまによって、とてつもない不思議さと、驚くべき素晴らしさで充溢している事への素直な感動・賛美になっていると思います。

     

     こどもたちは、ものすごい力でこの世界を吸収しています。


     私たち大人は、こどもたちが吸収する最も近接した「環境」に他なりません。


     こどもたちが、神さまが与えてくださった「素晴らしき世界」を吸収して、「分別」ある大人へと成熟することを、わたしたちは「見守る」ことを喜びとしています。

     

     まさにこれこそ、わたしたちの子どもたちへの、神さまに祈る祈りそのものでではないでしょうか。


    すべてのものを吸収する幼児期こそ、おとなたちは、可能なかぎり「よき環境」を子どもたちのために整えるべきではないでしょうか。


     わたしたち自身が、よき環境として成熟してゆくことも、祈りとして日々捧げようではありませんか。 

    2018年2月 聖句によせて

    • 2018.01.30 Tuesday
    • 12:08

     人格の成熟ということが、人にはあります。

     

    人は単に学習する動物ではなく、悔い改め、やり直し、工夫し、学び、熟考し、踏みだし、前進してゆきます。

     

     この成熟の過程が人生です。

     

     この成熟には、独力でできることだけでなく、どうしても「隣人との交わり」というものが、触媒のように必要です。

     

     成熟は、発酵です。

     

     人格は、よき酵母によって、適切な「環境との交わり」によって熟成するのです。

     

     幼児にとって、大人は成熟した人格者として登場してこそ、適切な人格的な交わり、環境との交わりと言えるでしょう。

     

     わたしたち大人は、教育者として、また養育者として、幼児の周囲に、適切な触媒となるのです。

     

     だから、わたしたちは、「吸収する心」をもつ幼児には、適切な「言語」をもって対峙するという役割を担っています。

     

     この邪悪な世界には、残念ながら、幼児の人格成長にとって、不適切な「言葉」が氾濫している現実があります。

     

     いやおうなしに、こともだちは、不適切な言葉も適切な言葉と共に吸収してしまいます。

     

     それゆえ、幼児には、吸収した言葉を判断し、言葉を自在に、適切に駆使する聡明な良心が育っていなければなりません。

     

     それゆえ、教育の根幹には、「聡明な良心」を養うという重大な目的との往還が必要なのです。

     

     ところで、「聡明な良心」は、生まれながらに人間に備わっている訳ではありません。

     アヴァロンの野生児の事例によってよく知られているように、人間は、その適切な人生の時期、すなわち幼児期に、適切な言語環境(人との交わり)なしには、高度な人格的な内言(こころのなかの言葉)・外言(外に発する言葉)を修得することができません。

     

     もちろん、人間は、神によって創造された「神の似姿」(イマーゴ・デイ)として、被造者のなかで最も秀でた存在として、神の栄光を輝かせる存在ですから、潜勢力として、成長し、成熟し、完成すべき存在として生まれてきます。

     

     しかし、この潜勢力(ポテンシャル)は、適切な環境との刺激の交流によって発現するのです。

     

     神は、この適切な関係性を、「愛」だということを示されました。

     

     愛は、神の存在から発出して、私たちにたえず注がれています。

     

     神は愛なのです。神は愛の発出源であり、愛そのものとして、わたしたち大人を通して子どもたちに、適切な交わりを与え、「聡明な良心」を人格の中心に形成してゆくのです。

     

     

    JUGEMテーマ:建学の精神

    2017年10月聖句によせて  「アブラムは、主の言葉にしたがって旅立った。」  創世記12章4節

    • 2017.10.02 Monday
    • 00:40

    ◆聖句によせて  「アブラムは、主の言葉にしたがって旅立った。」  創世記12章4節

     

     初代文部大臣森有礼の孫に森有正という人がいました。

     

    お父さまは森明といい、キリスト教の牧師でした。

     

    有正氏は生後間もなく幼児洗礼を受け、6歳の頃からフランス語やラテン語を学び、終生フランス語で思索することができた希有な方でした。

     

     

     東京大学の職を辞しフランスに永く暮らされ、ヨーロッパの基督教の息吹をパリから美しくも鮮烈な文章で送り続け、多くの人を魅了しました。

     

     

     パイプオルガンの名手でもあり、哲学的思索と音楽に生きるということの美しさを体現されたような人として、わたしは今も強く憧れています。

     

     

     同氏が国際基督教大学で、講演されたアブラハム物語についての省察は、青年時代のわたくしに強烈な啓示的な感動を与えました。

     

     アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を創始したといっても言い過ぎでない世界宗教の源流に位置する人物です。

     

     イスラエルという名を神によって与えられたヤコブは、アブラハムの孫にあたります。

     

     創世記は、アブラハム、イサク、ヤコブの物語で大半をしめています。

     

     「信仰の祖」と言われるこの人を神は、召し出されました。いわゆる「召命」の出来事です。

     

     神さまによって、呼び出された出来事を、「召命」と呼んでいるのです。

     

     英語では、コーリングと言います。まさに神さまが呼んだ出来事だからです。

     

     英語でもドイツ語(「ベルーフ」)でも天職を意味する言葉は、「神さまが呼び出された」という意味から言葉が形成されています。生業に生きることは神の呼び出しだというのです。

     

     アブラハムは、神の声を聴いて、行き先を知らずして旅立ちました。

     

     およそ旅立つという行為は、行き先をめざして出発するものですが、アブラハムは、行き先を知りませんでした。

     

     神はただ「私が示す地へ行きなさい」とだけ命じられたのでした。

     

     森有正氏のフランス行きも、神の声を聴いたからかもしれません。

     

     同氏は、この「行き先を知らず」に旅だったアブラハムの姿に、信仰というもの事柄の原点を見ていたと思います。

     

     わたしたちの人生も、実は旅先を知らない旅そのものではないでしょうか。

     

     わたしたちは、常に、この旅の途上にあるのではないでしょうか。

     

     「一瞬先は闇」のような世界だけれども、わたしたちは、安心して旅を続けています。

     

     どうして安心していられるのか。患難辛苦も時には襲来する。安穏平和な日々もある。

     

     辛いときも、悲しい時も、喜びの時も、わたしたちの旅を根底から支えて、その都度、行くべき道を示してくださる方がいることを感じます。

     

     人生は苦しみさえもひっくるめて、神さまに導かれている。

     

     こうした安心立命の旅を、アブラハムは一番最初に人類に示してくれました。

     

     森有正氏もその旅に生き、そして逝った、わたしはそう思っています。

     

     

    JUGEMテーマ:建学の精神

    5月の聖句 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」         コリントの信徒への手紙 4章16節

    • 2017.04.27 Thursday
    • 17:24

     目には見えない事物。事物は「モノ」とは限りません。

     

    「事」(こと)でもありますから。

     

    「こと」とは、さしあたって「事柄」と考えましょう。

     

     事柄となると、「モノ」のように、具体的・物体的なものではなく、「ストーリー」「ものがたり」のように、「起承転結」をもち、「状況」や、「キャスト」(登場人物)が出てきたりします。

     

     ある出来事が起こるとします。

     

     げんきがよく、好奇心旺盛で、面白がり、楽しい性格で、なんでもやってみたいという意欲もさかんなお友だちです。自分の気持ちをすぐに表情に表す素直なお友だちです。

     

     わたくしたちは「成熟したおとな」として、このようなお友だちが神さまからいただいている天性の賜物(ギフト)が正常に成長してゆくことを、心から願い、祈りつつ見守ることこそが教育だと考えています。

     

     このお友だちは、いろいろな事件(出来事)に遭遇します。事件と出来事は、ドイツ語では同じ言葉を使用することがあります。(Ereignis)

     

     ある日、このお友だちは、仲良しのお友だちに、面白いことをしてみます。

     

     面白いことは、こどもたちの世界では日常的に生起します。また生起しなければなりません。

     他者との適切な距離の取り方を学ぶ練習をしないままでは正常な成長をすることは望めないからです。

     友だち同士で、楽しい事を共有したり、共感しあったりする機会は、他者とのかかわりをもつなかで、お互いの内面のなかで、どういう「ストーリー」が生起しているかを読み解く経験が必要です。

     

     この内面的なストーリーを読み取れないと、「成熟したおとな」になることができません。

     

     この内面的な事件(出来事)は目には見えません。

     

     小さなお友だちの言葉を、この内面的な事件を洞察することなしに、文字通り「いうがまま」に受け取るとしたら、わたしたちは時にとんでもない過ちを犯すことになります。

     

     こどもたちの内面的な事件の相互的な交流自体もまた目には見えない出来事です。

     

     教育者は、ここで生起しているinvisible events (不可視の出来事)を見つめるべきです。

     

     もちろん保護者は第1の教育者です。

     

     

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    2017年主題聖句 「あなたがたは神に愛されている子どもです。」エフェソの信徒への手紙5章14節

    • 2017.04.07 Friday
    • 21:34

     春ですね。ホザナ幼稚園にも春がやってきました。

     幼稚園の園庭には、草や虫がいっぱいもどってきましたす。

     お友だちは、地面をじっと見つめて、小さな虫を眺めることが大好きでしょう。

    砂場の砂も、いろいろな夢をつくってほしいとばかりに待っています。

     厳しい冬のあいだじゅう、食べものがなくて、鳥たちはお庭の花を食べてしまったりしていたけれども、春の温かさを感じてたくさんの草花や虫たちがあちこちから顔をのぞかせ、鳥たちも花を啄んだりせずとも、食べものがいっぱいとれます。

    庭の石をどかせると、地面ではいろんな虫がごそごそと動きだしますし、うさぎも走り回りますよ。

     春は、いのちが、あたり一面に満ちてくる季節ですね。

     

     ヨハン・フリードリヒ・オーベルリーン(1740~1826) 牧師は、1770年に世界最初の保育園を創設しました。

     

     フリードリヒ・フレーベルが1837年世界初の「幼稚園」(キンダーガルテン)を創設するよりずいぶん以前のことでした。

     

     フレーベルも牧師の子で、養父も牧師でした。

     

     このように保育園も幼稚園も、こどもたちを、育てるということの必要を感じて、人類史のなかで、確固たる方針をもって開始した人々には、共通した動機があったのです。

     

     以下はフレーベルの解説(wiki)からの引用です。

     

    「彼は、子供の本質を神的なものとして捉え、

    (中略)園丁が植物の本性に従って、水や肥料をやり、日照や温度を配慮し、また剪定するように、教育者も子供の本質に追随的に、その無傷の展開を保護し、助成するように働きかけなければならないとされ、そこから彼のKindergarten―幼稚園(子供達の庭)という名称が生まれた。」

     

     「子どもの本質を神的なものとして捉える」ということは、「あなたがたは神に愛されている子どもです。」という聖句の核心です。

     

     だから、こどもを自己の延長や部分と捉えるのは誤りであり、

     

     独立した人格として尊重・敬愛することなしには、子育てはエゴにまみれたものに頽落してしまうでしょう。

     

     ホザナ幼稚園は、なによりも子どもを神に愛された存在として、尊重・敬意をもって教育する「こどものたちの庭」なのです。

     

     

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    3月の聖句によせて 「主はわたしの光、わたしの救い わたしはだれを恐れよう。」詩編27篇1節

    • 2017.02.28 Tuesday
    • 21:56

       劇団青年団を率いる平田オリザさんは、桜美林大学の演劇コースを立ち上げるときに、招聘されて尽力をされた方ですが、内閣参与、大阪大学、などでも、創造的な識見で貢献されています。『下り坂をそろそろと下る』のなかで、人の能力をどのように見るのか、育てるのか、貴重な提言をされています。
    「PISA調査は、OECD(経済協力開発機構)が三年に一度行っている世界共通の学力試験です。ここでは以下のような能力が問われると言われます。
    ・習得した知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるか。
    ・図表・グラフ・地図などを含む文章(「非連続型テキスト」という)を読み込み、活用する能力。
    ・ただ回答をするのではなく、なぜそう考えたか、答えを出すための方法や筋道を説明する能力。
    ・情報の取り出し、解釈・理解、熟考・判断、そして、その結果としての自分の意見を、他者に向かって表現する能力。」
    このPISA調査で、従来の日本の知識暗記型の一斉授業の方法では世界水準から大きく引き離されるという実態を重視し、ついに「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」を2020年から導入することになりました。
    ・思考力を重視し教科の枠組みを超えた問題を出題する
    ・各大学の個別試験は小論文や面接、集団討論などを取り入れて多面的に評価する、といった方針を打ち出しているといいます。
    「潜在的な学習能力」すなわち、大学に入ってからどれだけ伸びるかを試験の段階で見ろという方針なのです。
    平田さんは、先駆的に大阪大学リーディング大学院の選抜試験で、実際に行ってきた方法を紹介しています。詳細は省きますが、平田さんがこの方法で何を評価の対象として見たのか。
      「私たちが本当に見たいのは、たとえば、疲れていても他人にやさしくなれるか、自分と価値観の異なった意見にも耳を傾けることができるかといった寛容さや知的体力。またあるときは地道な作業にも献身的に参加し、あるときは局面打開のために創造性豊かな発言を行うといった柔軟性。様々な欲求、要望がぶつかる中で、どうにか折り合いをつけていく合意形成能力。もちろん、そのすべての能力を持っている必要もない。構成メンバーの得意・不得意を互いに把握し、役割分担をしていくこともリーダーの大事な素養だ。」
    この文を読んで、わたしは心が躍りました。これこそ、モンテッソーリの子どもたちが、毎日、取り組んでいる事ではないか。幼児期の敏感期に、特徴的な「集中現象」を健全に経験してきたこどもたちは、小学生段階に入ると、協働的な学習が主になります。幼稚園では、おどろくほど静かな教室が小学校の教室では、活発に話しあい、調べ物をしたり、課題に取り組むので賑やかな教室になる。「協働的学習」の経験が深い所で人間の生きる力を養うのです。

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    2017年1月 聖句によせて

    • 2016.12.19 Monday
    • 21:46

    「事実, ヘレン ・ ケラ ーは, すべての人々にあまねく知れわたった非凡な人間の驚くべき実例てす。 というのは, 生れつき視聴覚障害という閉じ込められた人間の精神を, 感覚教育によって解放することができるという実例だからてす。 ここに私の教育法の基礎となるものがあり, この本はその考えを簡潔にまとめたものてす。」   『わたしのハンドブック』序文より

     

     マリア・モンテッソーリは、その著書の冒頭で、ヘレン・ケラーに言及しています。彼女は、光を見ることはありませんし、音を聴くこともありません。しかし、驚くべきことに、彼女の語ることば、書く文章には高度に抽象的で、詩的で、かつ繊細な情感と高貴な道徳性に溢れています。

     

     わたくしは、この聖書のことば、「光の子として歩みなさい。」という言葉に触れるとき、光を経験することなしに、光を感じることができる人々を想像します。 視聴覚の感覚器官を経由せずに、他の感覚器官によって、それらの経験内容を感得することを、この人々はしています。これは奇跡以外の何でしょうか。

     

     モンテッソーリが、この奇跡を教育法の基礎として、感覚教育を構想しているとすれば、わたくしたち親、保育者らも、この閉じ込められた感覚器官の限界を超越してゆく、解放してゆく可能性を信じるべきではないでしょうか。

     

     いまだ見えぬものを観、いまだ聞こえぬもの聴く、光を感じえぬところで、光のなんたるかを感じとる、この奇跡を信じるところに基礎をおく教育。モンテッソーリ教育は、この「奇跡を信ずること」を、基本的態度とする教育といえるでしょう。

     

     この言葉は、その人から表出される「生きる態度全体」を、「光」という象徴を用いて表しています。

     

     ヘレン・ケラーのような人は、音も光もない世界に生きながら、人が発する「光」を、光として確実に認識する精神の自由を生きています。

     

     このような人の前で、わたしたちも、またわたしたちのこどもたちも、「光の子」として、認められる存在として生きる者となりなさい、と、神さまは、うながしておられます。

     

     神さま、どうかわたしたちがわたしたちのこどもたちが「光の子」としての輝きを輝かせて生きるものとなるように、心から信じ、願います。 

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