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    2019年2月聖句によせて 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」  ローマの信徒への手紙12章15節

    • 2019.02.04 Monday
    • 10:08

    ◆聖句によせて 2019年1月25日 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」 ローマの信徒への手紙12章15節  

     人間相互の共感性保持を、あえて凝縮して、定言的命法(無条件に「〜せよ」と命じる絶対的命法)で語る神のみ言葉として、深く心に刻まれます。

     

     使徒パウロの言葉ではあるけれども、パウロに注がれている聖霊の語りたもうた神の定言命令としか、わたしには思えません。

     

     「喜ぶ者」がどんな喜びに包まれているのか。

     

     「泣く者」がどんな悲しみに沈んでいるのか。

     

     一切語られていなくても、その「喜び」、その「悲しみ」が、共感すべき「喜び、悲しみ」であることは命令法自体が既に含んでいます。すなわち、「邪悪な喜び」、「邪悪な悲しみ」は、定言命令法自体が排除している。人として「高潔な喜び」、「尊厳ある悲しみ」にこそ、共感しなさいと命じているのです。

     

     隣人の「喜び」に共感できる力、「悲しみ」に共感できる力。この力は、端的に「愛」の力と言ってよいでしょう。

     

     親は、こどもの「喜び」に共感して自らの「喜び」と感じます。

     

     こどもの「悲しみ」に共感して自らも深く悲しみ、痛みます。

     

     こどもは親の「喜び」を、自らの「喜び」として「喜び」ます。

     

     こどもが何かを達成し得た時の、親の喜びは、こどもに深い「喜び」として心に刻まれます。親の喜ぶさまを観たいと願うようになります。

     

     また、親を悲しませたくないと願うようになります。

     

     この共感する力の循環は、わたしたちの心に響く神の定言的命令によって、限りなく永続してゆくのではないでしょうか。

     

     「観てみ観て!わたし、できたよ!」と誇らしげに自分の達成した「成果物」の評価を、親に求めるのは、「親の喜ぶありさま」を観たい・感じたいからではないでしょうか。

     

     自分自身が密やかに喜んでいるだけではなく、親にも共に喜んでほしい!親もまた、子どもが喜ぶ姿を、心から祈り願うでしょう。  

     

     隣人の「喜び」を、率直に「喜べる」ことは、隣人との紐帯を堅くします。隣人の「傷み・悲しみ」に、素直に「同調」することは、「礼節」ですらあります。

     

     「共感力」を深めること、この「力の循環」を育むこと、それがわたしたちの共通の祈り、願いでありましょう。  

    JUGEMテーマ:建学の精神

    2019年1月の聖句によせて 「求めなさい。そうすれば、与えられる。」マタイによる福音書7章7節 

    • 2019.02.04 Monday
    • 10:05

    ◆1月の聖句によせて
    「求めなさい。そうすれば、与えられる。」マタイによる福音書7章7節

    JUGEMテーマ:建学の精神

     

       この主イエスのみ言葉には、究極の「積極的思考法」が表明されています。
     もちろん、思考するだけで、それに伴う努力とか精進とかなければ、求めにふさわしい結果を得ることはできません。何も望まないところ、求めないところには、何の結果も生まれては来ません。まず、自己自身が、何を欲しているのか、明確な自覚があってこそ、その目標を目指しての生活が始められるものです。
     ただ、いわゆる「ポジティブ・シンキング」には、マインドコントロールの罠が仕込んであるので、わたしは眉に唾をつけてみることにしています。誰もが抱いている劣等感や自尊感情の低さを利用して、巧みに隷属的な状態へと誘導する「自己啓発」が社会問題にもなっています。しかし「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。」(マタイ12:33)
     「木をその実を見れば分かる」ものです。
     主イエスが語られたみ言葉には。人を操り奴隷に変えてしまうような要素は微塵もありません。むしろ、究極的な自己実現の思考法というべきでしょう。
     「求める」という動機が、自分自身のなかに生まれてくることが、大切だということです。しかも、その「求める」ことの中身が重要です。
     主イエスが「求めなさい」と命じておられる事柄が、「悪事」でないのは当然でしょう。神さまが「悪事」をなさることはあり得ないし、命じることもあり得ません。神さま(イエスさま)が命じる事柄は、「善」であり、「完全さ」であり、「正しさ(正義)」であり、「公正さ」であり、あらゆる「よきもの」です。
     神さまは、わたしたちひとりひとりに、わたしたちひとりひとりにとって「よきもの」を実現するように、あらゆる「よきもの」を「求める」ことを、こよなく切に、求めておられる。神さまご自身が、わたしたちにとって「よきもの」の実現を求めておられるからこそ、「求めなさい」と命じたもう。
     新しい、一年が、お一人お一人にとって、最善、最大、最高の「よきもの」が実現されるように、強く「求める」動機が生まれますように、天よりの恵み(ギフト)が賜与されますようにと、心より祈ります。
                                 ハッピー・ニューイヤー!
     

    2018年12月 聖句によせて   「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」マタイによる福音書2章10節

    • 2018.12.03 Monday
    • 09:38

    JUGEMテーマ:建学の精神

    ◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ>    

    「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」マタイによる福音書2章10節

     

       神の啓示と宇宙にはなにかしらの関係があるという事実を示している聖句です。


    わたしはこどもの頃からプラネタリウムが大好きで、当時は最新鋭だった五島プラネタリウムへ、母によく連れて行ってもらいました。
     名著『星と神話伝説』(野尻抱影著)を夢中になって読んでは星空に夢をはせていた少年でした。

     わたしは、何が不思議といってこれほど不思議なことがあるのかなと思ったのは、真北を示す北極星の存在でした。北斗七星から見つけ出した北極星を眺めては、「神さまはすごいなあ」と感動していました。


     東方の博士たちは、古代の天文学者です。

     澄み切った乾燥したメソポタミアの砂漠では、旅をするときに方向を知る手段は星空でした。

     北極星(ポーラースター)の存在は、天空の地図を描く時に欠かせない基準点になった筈です。

     星を観察することで占星術はやがて天文学へと発展してゆきます。

     

     当時は人類の命運・人生の命運と天空の星とが何かしらのつながりがあると古代人は直感して生きていました。

     

     星の運行と人生を切り離して純粋な観察者の態度と対象世界を分離独立させる科学的態度がやがて確立してゆきます。

     天文学の誕生です。

     
     宇宙についての学問は、急速に進歩して、宇宙創生の科学的な知見はどんどん緻密になっています。そして限りある地球環境は人類の急速な人口増大とそれに伴う劇的な環境破壊によって、この惑星は生物環境の限界に近づいています。

      
     東方の天文学者たちが歓喜した星の発見とは、キリスト・イエスの誕生を啓示でした。

     神さまによって創られた存在である星(被造物)が、神さまの意思を伝える出来事となったのでした。

     

     地球という環境世界の危機に際して、キリスト・イエスを指し示す「星」を、わたしたちは観ることができるでしょうか。

     

     希望は既に示されました(クリスマス)。

     

     わたしたちの周囲に、この「星」を見いだして、ともどもに歓喜の歌を歌いたいと思います。

     

     神は信じる者に、必ずやその「星」を示してくださることでしょう。

     

    ◆6月聖句によせて「空の鳥をよく見なさい。・・・あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」マタイによる福音書6章26節

    • 2018.06.04 Monday
    • 01:44

    ◆6月聖句によせて

     「空の鳥をよく見なさい。・・・あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」

                                      マタイによる福音書6章26節

     すべての存在は神によって創造された。

     

     信仰の言説と科学的言説は区別されます。

     

     科学は、現に存在している現実を事実として表記するだけです。

     

     信仰の言説は、それはどこまでも「信仰告白」です。

     この信仰告白を、わたしたちは意識するにせよ、無意識にせよ、この確信に基づいているとしか思えないほどに、この世界を、感謝、驚嘆、讃美、感動する感性をもって受けとめているではありませんか。

     

     「なんと素晴らしい世界だろう!」

     Louis Armstrong – What a wonderful world

     

     I see trees of green,red roses too.

     I see them bloom,for me and you.

     And I think to myself,what a wonderful world.

     

     I see skies of blue,And clouds of white.

     The bright blessed day,The dark sacred night.

     And I think to myself,What a wonderful world.

     

     The colors of the rainbow,So pretty in the sky.

     

     Are also on the faces,Of people going by,

     I see friends shaking hands.

     Saying, “How do you do?”

     They’re really saying,“I love you”.

     I hear babies cry,I watch them grow,They’ll learn much more,Than I’ll ever know.

     And I think to myself,What a wonderful world.

     

     Yes, I think to myself,What a wonderful world.Oh yeah.

     

     私には緑の木々が見える、赤いバラの花々も私と君のために咲いているんだ。

     そしてひとり思うんだ、なんて素晴らしい世界だと。

     私には青い空が見える、白い雲も輝き祝福された日、暗い神聖な夜。

     そしてひとり思うんだ、 なんて素晴らしい世界だと。

     虹の色彩、空にあって何と可愛らしい。

     行き交う人々のその顔にもあって、私には友人たちが握手しているのが見える、「ごきげんいかが?」って言ってるよ

     彼らは本当は言ってるんだ。「愛しています」って。

     私は赤ちゃんたちの泣き声が聞こえる、彼らの成長を見守ろう。

     

     彼らはより多くを学ぶだろう、私が知るだろうことよりも。

     

     そしてひとり思うんだ、 なんて素晴らしい世界だと。

     そうさ、ひとり思うんだ、なんて素晴らしい世界だと。

    JUGEMテーマ:建学の精神

    2018年主題聖句 4月の聖句によせて

    • 2018.04.02 Monday
    • 00:34

    2018年主題聖句 「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」                               ヨハネの手紙機。隠款錬隠雲

     

     

    4月主題聖句「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」・・・そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

                                  マルコによる福音書10章14節〜16節 

     

     

     人間同士が互いに愛し合うということは、いったいどのようなことを言うのでしょうか。

     

    非常にすぐれた頭脳をもって、高い能力を身につけている人でも、人を見下したり、敬意をもたずに蔑んだりする人もいます。そういう人でも愛を説いたり、勧めたりするのですが、その人から蔑まれたり、見下されたりしている人は、その人から愛を受け取ることは、通常はできません。

     

     

     つまり愛は、いくら説いたり、解説されても、愛が理解できたり、感じたりするという事柄なのではなくて、きわめて具体的な、身体的かつ精神的な、つまり全人格的なかかわり合いのなかで、なんらかの感動をともなう仕方で、わたしたちの経験において、伝わる事柄だからです。

     

     

     

     イエス・キリストは、神が愛でありたもうことを身をもって示された方です。

     

     

     愛をどれほど多く語ったとしても、愛を具体的に示されなかったとすれば、愛の言葉は虚しく消え入るだけですが、イエス・キリストは、ご自身のすべてを十字架上で、殺され、犠牲となられたことによって、神がわたしたちを具体的に愛してくださっていることを、あきらかにされました。

     

     

     

     神の独り子なる神の子イエスが、わたしたちの「罪のあがない」として、十字架で死んでくださったことにより、わたしたちの罪は、赦され、あたいなしに神の子とされました。ここに愛があります。

     

     

     

     この愛を、わたしたちは、すでに、あまねく受けています。

     

     

     現に受けているこの犠牲を愛を、具体的な感動の経験として、感じとり、認識し、この愛によって包まれているならば、わたしたちは、この現に受けている愛、現に包まれている愛を、こんどは、わたしたちの隣人に向けて、反射すること、放射することができるはずです。

     

     

     

     現に受けているところの無限の、無条件の神の愛を、こともたちに、隣人にむけて伝えることを得させてくださいと、共に祈りましょう。

     

     

    JUGEMテーマ:建学の精神

    12月の聖句によせて 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」    

    • 2017.11.27 Monday
    • 22:50

    ◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ> 

    「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」 ルカ2章14節

     

      最近、『ALWAYS 三丁目の夕日』を続編と共に、観ました。二度目でした。

     

     一作目のなかで、芥川賞を目指す貧乏文士龍之介おじちゃんが、ひょんな事で同居するようになった10歳の淳之介少年のために、サンタのプレゼントを演出するというシーンがあります。
     

       この淳之介少年は、時代設定として、ちょうど私自身と重なるので、この映画のシーンは、昔の生活感がスウっと伝わってくるのです。わたし自身がサンタのプレゼントの思い出を振り返ってみると、靴下を枕元に置いて眠ったなと思い出せるのは、小学校二年生頃でしたでしょうか。
     

       子ども時代、わたしの家族は布団を出し入れする生活でした。

      部屋の隅の一番端っこに布団を敷いて寝ることを好む子どもでした。

     

      夏の暑い夜には、壁の冷たい感触を味わえるのは一番端っこだったし、カーテンの模様、それはクリスマスツリーのような樹木のデザインでしたが、それを眺めながら物語の空想に耽ることが楽しいこともあったからです。
     

     クリスマス・イブにはサンタクロースが来ることが楽しみで、プレゼントにも胸を膨らませていたものでした。
     

     淳之介少年が10歳と言えば、小学校4年生です。

     そろそろサンタクロースが「お父ちゃん・お母ちゃん」ではないかと感づきはじめるか、もう感づいている年頃です。
     

     映画の中では、一瞬ですが、淳之介はサンタクロースを信じていましたね。

     

     彼は急いで家の外まで飛んでいってあたりを見回しました。

     すると手を振って帰って行くサンタクロースを目撃するのです。(実は龍之介おじちゃんの演出だったんでだすけどね。)

     

     「サンタクロースって嘘だと思っていたけど、本当だったんだ。」
     

      淳之介少年は目を輝かせながら呟き、

     「おじちゃん!サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれたんだよ!本当にサンタクロースっていたんだね。」、
     

     「おお、そうか。何をもって来てくれたのかな?あけて見せてごらん。」
     

     「うわああ、万年筆!どうしてボクが欲しかったものがわかったんだろう?」
     

      確かこんな会話が続きました。
     

      目をキラキラさせて喜ぶ淳之介少年を、微笑みながら見つめるおじちゃん。
     

      つい泣けてしまうシーンでした。
     

      神さまは、愛する人の喜ぶさまを観たいというこころを私たちに創造してくださいました。
     

     神さまが創造してくださったわたしたち自身の、この「喜びの構造」は、偶然の積み重ねで進化してきたものなのでしょうか。
     

     偶然にしては、あまりに手が込んでいますね。
     

     神さまご自身がわたしたち人間が喜ぶさまを観て、実は喜びたいと願っておられるのではないでしょうか。
     

     「喜びの構造」は神さまの願いに由来しているからこそ、わたしたちの愛の基本構造となっている。
     

     わたしたち大人たちは、子どもたちに、この愛の基本構造への揺らぐことのない信頼感を、魂の奥底に育てる責任があると考えています。

     

    JUGEMテーマ:建学の精神

    ◆7月の聖句によせて 「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ。」詩編96編11節

    • 2017.07.01 Saturday
    • 01:42

    JUGEMテーマ:建学の精神


      なんと気宇壮大な、とてつもなくスケールが大きい喜びが語られていることだろう。しかも、大地に向かって「踊れ」と叫んでいる。
     自由なこどもは、飛び跳ねるという。(エリクソン)
     そのとおりだ。

     トランポリンがあれば、こどもたちはまちがいなく、四六時中飛び跳ねている。
     自由遊びの時間、子どもらは、笑いながら走り回っている。追いかけっこをしたり、鬼ごっこをしたり、跳ね回るといったほうがいいくらいに、転げても、起き上がり、泣いても、笑っても、それがたまらく面白いのだ。


     大地から数センチでも数十センチでも、跳び上がるという行為は、「自由」を求める人間の根源的な欲求に基づいている。

     

     地球の重力という強大な力にあらがい、空中に飛び跳ねている、その刹那は、それだけ「地」から自由に、「天」に向かっての存在になりきっている。こどもらは、この「自由」を本能的に求めている。


     こどもらが、跳ね回り、走り回り遊ぶことによって、この「自由」を、全身で味わっているのだ。


     したがって、幼児期においては、遊びは、自由を味わうことであるのだから、自ずから自発的であり、人生のその瞬間にしか味わうことができない感動に満たされているものなのである。


     だから、こどもひとりひとりが、自由を味わう喜びこそが、「遊び」なのであるから、集団として型にはめて、一定の方向に全員を顔をむけさせて行う「一斉授業」(保育)は根底から、この本質的な喜びを妨げるものなので、幼児期には、極力避けねばならない。


     こどもらは嬉しい時に、跳ねる。楽しい時に跳ねる。


     そして、ときには、くるくるとまわって、目を回してみる。


     すると、世界がグルグルして、フラフラになる。それがまたたまらなく、こどもらを楽しませる。いろいろとやってみる。


     石段を駈け上ってみる。塀の上をはしってみる。水たまりがあれば、入ってみる。泥だらけになったら、なったで面白がる。 

     


     世界と、「天」と「地」と、自由にかけまわって、世界を感じとる。

     


     われらは、高原を登り切った尾根から、平らに広がる広大な高原の景色を眼下に見下ろすとき、「天」「地」が接する世界、宇宙を感じるものだが、

     この世界を感動する経験を、こどもらは日々しているといってよい。

     

     こどもの視線からみれば、「こどもの庭」(キンダーガルテン=幼稚園)は、十分に冒険に値する小宇宙だ。


     わたしたちの園は、「一斉保育」では味わえない、世界を喜び世界を飛び出す、人生ただ一回の感動の経験を、幼稚園でいっぱい味わってほしいと祈るのである。

     

    10月の聖句によせて 「あなたがたは地の塩である。」   マタイによる福音書5章13節

    • 2016.10.01 Saturday
    • 01:27

          「あなたがたは地の塩である。」   マタイによる福音書5章13節 主イエスは、

     

    「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と言われています。

     

     通常は、土壌に塩分が高濃度で含まれているならば、そこに繁茂する植物は限られてしまい、決して豊かな土壌とは言えませんが、主イエスは、むしろ「塩」を土壌を貧しくする成分とはせずに、必要不可欠な成分だと言っているように思われます。

     

     「塩に塩気がなくなる」ということがあるでしょうか。自然現象ではあり得ませんよね。塩化ナトリウムは、どこまでも塩化ナトリウムですから、濃度が薄まれば、味が薄まることはあっても、別のものになることはありません。

     

     ですから、これはメタファー(隠喩:たとえの形式をはっきり示さずにたとえる方法)でしょう。

     

    「塩気を失った塩」は、「塩」らしい働きをしなくなる「塩」の比喩になっています。

     

     この譬えは、意味深長です。土壌にとっては塩が塩らしく働けば、植物は育ちにくいやせた、貧しい土壌になりますから、人間の暮らし向きには役立ちません。

     

     土壌には、塩の働きはない方が人間の利便には有益なのです。

     

     それなのに、主イエスは、なぜ土壌にとって、塩が必要不可欠な成分だと言っているのでしょうか。

     

     極端なまでに、塩気のない塩は投げ捨てられ、踏みつけられるとまで言われます。

     

     塩気が、それほど大切なのだと強調されるのです。なぜでしょうか。

     

     植物を育て、養い、大きく成長される土壌には、さまざまな成分が含まれています。

     

     その成分が単一であることよりも、多様であることが土壌にとっては豊かだと言えましょう。

     

     塩はそのなかの1つですが、人間と土壌を結ぶ成分の1つでもあります。

     

     人は神さまによって「土」(アダマー)から創造されましたが、やがて再び「土」に帰ってゆきます。

     

     「塵から産まれ、塵に帰る」のです。人の身体は、塩なくしてはあり得ません。

     

     人が生き、そして死んでゆく悠久の営みが土壌を生成してきているのです。塩は人と地球を結ぶ成分なのです。

     

     この塩が、塩としての働きを果たしていることは、人間の利便性という一部の局面だけでは判断できない、無限の意味がある。

     

     主イエスは、わたしたちの目先の目的に合うか合わないかだけで、ものを判断してはならないということを、さとしておられるのかもしれません。

     

     はやり土壌には、どうしても塩が必要な理由があるのです。それが何かはわたしたちに、にわかにはわからないところでも。

     

     

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    5月の聖句  「神は愛です。」 ヨハネによる第1の手紙 4章16節

    • 2016.05.04 Wednesday
    • 16:29
     「キリスト教の祈りは、祈ること自体すでに愛することであり、キリスト教における活動は神の愛によって動かされたものである」(エヴェリー『現代人の祈り』)

      奥村一郎神父(カトリック司祭)は、このエヴェリーの祈りについての思想を、「まばゆいまでに美しい祈りの理想論」と呼んだけれども、決して手放しに賛辞を送った訳ではありませんでした。続けて「しかし、キリスト教の本質は愛であるという観念的規定によって、祈りと活動の問題を簡単に整理してしまうことほど、大きなあやまりはない」と、むしろ手厳しく批判していたのです。

      愛することは、祈りを伴う事柄であることは間違いありません。祈ることなしには、自分は愛しているつもりでも、内実は自分自身の我を通しているだけのことだってありえます。

     こどもに、神さまが賦与してくださった賜物(タラント)を最大限に伸ばしてあげたい!と願うのは親心ですが、この親心が自我の我欲から自由にされていない「わがまま」な願望に頽落していれば、この親心がこどもを虐待することになりかねません。

     こどもを勉強嫌いにしたければ、この我欲から発した親心を行動に移せばよいのです。「勉強しなさい」と言い続ければ、ほぼ間違いなくこどもは「勉強嫌い」になるでしょう。つまり、親の心持ち次第で、こどもの才能は成熟しますが、逆に成長が阻害されもするでしょう。

     情欲に起源する情愛は、おのれの我欲の満足を求め、おのれの思いをとげようとします。神への愛、すなわち、神への祈りによって聖化された親心は、こどもを自由にします。

     自由にされた子どもは、自由に神さまによって賦与された賜物・贈り物を、原石からダイアモンドへと磨き上げてゆくでしょう。

     生まれてまだ2年しかたっていない幼児も、自由にされると、驚異的な集中現象を発現します。

     「もっと、他のお仕事をしてほしいな」とか、「ああ、そうじゃない」とか、親心が動きますが、その心が親の満足を得たいという我執であるときには、こどもの集中現象が阻まれることになりかねません。

      自分の心のなかにこうあってほしいのにとか、こうあるべきだなどという理想像をもって、こどもにそれを押しつけようとすると(大人でも同じです)、自由な関係性は破壊されてしまうのです。
     
    JUGEMテーマ:建学の精神

    ◆2月の聖句によせて   「正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる。」箴言14章34節(口語訳)

    • 2016.01.27 Wednesday
    • 13:44
    JUGEMテーマ:建学の精神
    ◆聖句によせて
    「正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる。」 箴言14章34節(口語訳)
      『杉原千畝SUGIHARA CHIUNE』を観ました。ナチスの迫害を逃れてヴィザ発給を求めるユダヤ人6000人の命を救ったリトアニア領事館勤務の外交官を紹介した映画です。時の日本外務省の訓令に背いて発給したヴイザによって生きながらえられたユダヤ人の子孫は世界に数万人にのぼると言われます。
     イスラエル政府は、千畝の行為をたたえて、1985年、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅(ホロコースト)から自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人に感謝と敬意を示す称号である「諸国民の中の正義の人賞」を贈りました。日本人でこの称号を贈られた人物は、今日まで杉原千畝、ただ1人だけです。
     千畝は、最初の妻クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワとの結婚時代に、洗礼を受けロシア正教徒となりました。既に早稲田大学在学中、信交協会(現早稲田奉仕園、早稲田教会)に属し、キリストの言葉に深い感化を受けていました。


      昨年、いのちのことば社から『DVD 激動の20世紀を生きた三人のクリスチャン』が発行されました。これは、この杉原千畝と韓国釜山で三千人の戦争孤児を育てた田内千鶴子、そして日中戦争戦時下、命の危険のあるなかで中国人子弟の足を洗う(仕える)働きに献身した清水安三(園長の祖父)の三名を紹介したものでした。

      いずれもが、わが国が戦争という悲惨な時代に、平和をつくりだすために、国境を越えた愛の実践をしたキリスト者です。

     神が創造された、尊い人の命を奪い合うという愚かしい戦争の時代に、正義を貫くことは多くの困難を伴ったことでしょう。
     
     杉原も、外務省の訓令に背いたことを問われて、職を追われました。
     祖父も、「非国民」と中傷を受けたり、論説を寄稿していた新聞(『北京週報』)は軍部批判のために発禁処分を受けました。
     田内さんにしても戦後の韓国で日本人として生きることは複雑な思いをもってみられたのではないかと思います。
     しかし、これらの人々を魂の根底から支えていたものは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)というキリストの愛でした。

     ナチスのホロコースト、日本軍による南京大虐殺、広島・長崎の原爆・・・、戦争の悲惨は、二度と繰り返されてはなりません。けれども、人間の思いはかることは、繰り返し愚かな道を繰り返してきました。

     どうしたら、わたしたちはこの愚かな選択を回避できるでしょう。その方策を知るために、わたしたちは、歴史を単なる好奇心ではなく、学び直す必要があります。
     正確な歴史認識から、こどもたちの命を守る新に具体的な最良の道をさぐりだす責任があるのです。
     
     キリストの愛の魂をもって。

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