2018年主題聖句 4月の聖句によせて

  • 2018.04.02 Monday
  • 00:34

2018年主題聖句 「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」                               ヨハネの手紙機。隠款錬隠雲

 

 

4月主題聖句「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」・・・そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

                              マルコによる福音書10章14節〜16節 

 

 

 人間同士が互いに愛し合うということは、いったいどのようなことを言うのでしょうか。

 

非常にすぐれた頭脳をもって、高い能力を身につけている人でも、人を見下したり、敬意をもたずに蔑んだりする人もいます。そういう人でも愛を説いたり、勧めたりするのですが、その人から蔑まれたり、見下されたりしている人は、その人から愛を受け取ることは、通常はできません。

 

 

 つまり愛は、いくら説いたり、解説されても、愛が理解できたり、感じたりするという事柄なのではなくて、きわめて具体的な、身体的かつ精神的な、つまり全人格的なかかわり合いのなかで、なんらかの感動をともなう仕方で、わたしたちの経験において、伝わる事柄だからです。

 

 

 

 イエス・キリストは、神が愛でありたもうことを身をもって示された方です。

 

 

 愛をどれほど多く語ったとしても、愛を具体的に示されなかったとすれば、愛の言葉は虚しく消え入るだけですが、イエス・キリストは、ご自身のすべてを十字架上で、殺され、犠牲となられたことによって、神がわたしたちを具体的に愛してくださっていることを、あきらかにされました。

 

 

 

 神の独り子なる神の子イエスが、わたしたちの「罪のあがない」として、十字架で死んでくださったことにより、わたしたちの罪は、赦され、あたいなしに神の子とされました。ここに愛があります。

 

 

 

 この愛を、わたしたちは、すでに、あまねく受けています。

 

 

 現に受けているこの犠牲を愛を、具体的な感動の経験として、感じとり、認識し、この愛によって包まれているならば、わたしたちは、この現に受けている愛、現に包まれている愛を、こんどは、わたしたちの隣人に向けて、反射すること、放射することができるはずです。

 

 

 

 現に受けているところの無限の、無条件の神の愛を、こともたちに、隣人にむけて伝えることを得させてくださいと、共に祈りましょう。

 

 

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12月の聖句によせて 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」    

  • 2017.11.27 Monday
  • 22:50

◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ> 

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」 ルカ2章14節

 

  最近、『ALWAYS 三丁目の夕日』を続編と共に、観ました。二度目でした。

 

 一作目のなかで、芥川賞を目指す貧乏文士龍之介おじちゃんが、ひょんな事で同居するようになった10歳の淳之介少年のために、サンタのプレゼントを演出するというシーンがあります。
 

   この淳之介少年は、時代設定として、ちょうど私自身と重なるので、この映画のシーンは、昔の生活感がスウっと伝わってくるのです。わたし自身がサンタのプレゼントの思い出を振り返ってみると、靴下を枕元に置いて眠ったなと思い出せるのは、小学校二年生頃でしたでしょうか。
 

   子ども時代、わたしの家族は布団を出し入れする生活でした。

  部屋の隅の一番端っこに布団を敷いて寝ることを好む子どもでした。

 

  夏の暑い夜には、壁の冷たい感触を味わえるのは一番端っこだったし、カーテンの模様、それはクリスマスツリーのような樹木のデザインでしたが、それを眺めながら物語の空想に耽ることが楽しいこともあったからです。
 

 クリスマス・イブにはサンタクロースが来ることが楽しみで、プレゼントにも胸を膨らませていたものでした。
 

 淳之介少年が10歳と言えば、小学校4年生です。

 そろそろサンタクロースが「お父ちゃん・お母ちゃん」ではないかと感づきはじめるか、もう感づいている年頃です。
 

 映画の中では、一瞬ですが、淳之介はサンタクロースを信じていましたね。

 

 彼は急いで家の外まで飛んでいってあたりを見回しました。

 すると手を振って帰って行くサンタクロースを目撃するのです。(実は龍之介おじちゃんの演出だったんでだすけどね。)

 

 「サンタクロースって嘘だと思っていたけど、本当だったんだ。」
 

  淳之介少年は目を輝かせながら呟き、

 「おじちゃん!サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれたんだよ!本当にサンタクロースっていたんだね。」、
 

 「おお、そうか。何をもって来てくれたのかな?あけて見せてごらん。」
 

 「うわああ、万年筆!どうしてボクが欲しかったものがわかったんだろう?」
 

  確かこんな会話が続きました。
 

  目をキラキラさせて喜ぶ淳之介少年を、微笑みながら見つめるおじちゃん。
 

  つい泣けてしまうシーンでした。
 

  神さまは、愛する人の喜ぶさまを観たいというこころを私たちに創造してくださいました。
 

 神さまが創造してくださったわたしたち自身の、この「喜びの構造」は、偶然の積み重ねで進化してきたものなのでしょうか。
 

 偶然にしては、あまりに手が込んでいますね。
 

 神さまご自身がわたしたち人間が喜ぶさまを観て、実は喜びたいと願っておられるのではないでしょうか。
 

 「喜びの構造」は神さまの願いに由来しているからこそ、わたしたちの愛の基本構造となっている。
 

 わたしたち大人たちは、子どもたちに、この愛の基本構造への揺らぐことのない信頼感を、魂の奥底に育てる責任があると考えています。

 

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◆7月の聖句によせて 「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ。」詩編96編11節

  • 2017.07.01 Saturday
  • 01:42

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  なんと気宇壮大な、とてつもなくスケールが大きい喜びが語られていることだろう。しかも、大地に向かって「踊れ」と叫んでいる。
 自由なこどもは、飛び跳ねるという。(エリクソン)
 そのとおりだ。

 トランポリンがあれば、こどもたちはまちがいなく、四六時中飛び跳ねている。
 自由遊びの時間、子どもらは、笑いながら走り回っている。追いかけっこをしたり、鬼ごっこをしたり、跳ね回るといったほうがいいくらいに、転げても、起き上がり、泣いても、笑っても、それがたまらく面白いのだ。


 大地から数センチでも数十センチでも、跳び上がるという行為は、「自由」を求める人間の根源的な欲求に基づいている。

 

 地球の重力という強大な力にあらがい、空中に飛び跳ねている、その刹那は、それだけ「地」から自由に、「天」に向かっての存在になりきっている。こどもらは、この「自由」を本能的に求めている。


 こどもらが、跳ね回り、走り回り遊ぶことによって、この「自由」を、全身で味わっているのだ。


 したがって、幼児期においては、遊びは、自由を味わうことであるのだから、自ずから自発的であり、人生のその瞬間にしか味わうことができない感動に満たされているものなのである。


 だから、こどもひとりひとりが、自由を味わう喜びこそが、「遊び」なのであるから、集団として型にはめて、一定の方向に全員を顔をむけさせて行う「一斉授業」(保育)は根底から、この本質的な喜びを妨げるものなので、幼児期には、極力避けねばならない。


 こどもらは嬉しい時に、跳ねる。楽しい時に跳ねる。


 そして、ときには、くるくるとまわって、目を回してみる。


 すると、世界がグルグルして、フラフラになる。それがまたたまらなく、こどもらを楽しませる。いろいろとやってみる。


 石段を駈け上ってみる。塀の上をはしってみる。水たまりがあれば、入ってみる。泥だらけになったら、なったで面白がる。 

 


 世界と、「天」と「地」と、自由にかけまわって、世界を感じとる。

 


 われらは、高原を登り切った尾根から、平らに広がる広大な高原の景色を眼下に見下ろすとき、「天」「地」が接する世界、宇宙を感じるものだが、

 この世界を感動する経験を、こどもらは日々しているといってよい。

 

 こどもの視線からみれば、「こどもの庭」(キンダーガルテン=幼稚園)は、十分に冒険に値する小宇宙だ。


 わたしたちの園は、「一斉保育」では味わえない、世界を喜び世界を飛び出す、人生ただ一回の感動の経験を、幼稚園でいっぱい味わってほしいと祈るのである。

 

10月の聖句によせて 「あなたがたは地の塩である。」   マタイによる福音書5章13節

  • 2016.10.01 Saturday
  • 01:27

      「あなたがたは地の塩である。」   マタイによる福音書5章13節 主イエスは、

 

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と言われています。

 

 通常は、土壌に塩分が高濃度で含まれているならば、そこに繁茂する植物は限られてしまい、決して豊かな土壌とは言えませんが、主イエスは、むしろ「塩」を土壌を貧しくする成分とはせずに、必要不可欠な成分だと言っているように思われます。

 

 「塩に塩気がなくなる」ということがあるでしょうか。自然現象ではあり得ませんよね。塩化ナトリウムは、どこまでも塩化ナトリウムですから、濃度が薄まれば、味が薄まることはあっても、別のものになることはありません。

 

 ですから、これはメタファー(隠喩:たとえの形式をはっきり示さずにたとえる方法)でしょう。

 

「塩気を失った塩」は、「塩」らしい働きをしなくなる「塩」の比喩になっています。

 

 この譬えは、意味深長です。土壌にとっては塩が塩らしく働けば、植物は育ちにくいやせた、貧しい土壌になりますから、人間の暮らし向きには役立ちません。

 

 土壌には、塩の働きはない方が人間の利便には有益なのです。

 

 それなのに、主イエスは、なぜ土壌にとって、塩が必要不可欠な成分だと言っているのでしょうか。

 

 極端なまでに、塩気のない塩は投げ捨てられ、踏みつけられるとまで言われます。

 

 塩気が、それほど大切なのだと強調されるのです。なぜでしょうか。

 

 植物を育て、養い、大きく成長される土壌には、さまざまな成分が含まれています。

 

 その成分が単一であることよりも、多様であることが土壌にとっては豊かだと言えましょう。

 

 塩はそのなかの1つですが、人間と土壌を結ぶ成分の1つでもあります。

 

 人は神さまによって「土」(アダマー)から創造されましたが、やがて再び「土」に帰ってゆきます。

 

 「塵から産まれ、塵に帰る」のです。人の身体は、塩なくしてはあり得ません。

 

 人が生き、そして死んでゆく悠久の営みが土壌を生成してきているのです。塩は人と地球を結ぶ成分なのです。

 

 この塩が、塩としての働きを果たしていることは、人間の利便性という一部の局面だけでは判断できない、無限の意味がある。

 

 主イエスは、わたしたちの目先の目的に合うか合わないかだけで、ものを判断してはならないということを、さとしておられるのかもしれません。

 

 はやり土壌には、どうしても塩が必要な理由があるのです。それが何かはわたしたちに、にわかにはわからないところでも。

 

 

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5月の聖句  「神は愛です。」 ヨハネによる第1の手紙 4章16節

  • 2016.05.04 Wednesday
  • 16:29
 「キリスト教の祈りは、祈ること自体すでに愛することであり、キリスト教における活動は神の愛によって動かされたものである」(エヴェリー『現代人の祈り』)

  奥村一郎神父(カトリック司祭)は、このエヴェリーの祈りについての思想を、「まばゆいまでに美しい祈りの理想論」と呼んだけれども、決して手放しに賛辞を送った訳ではありませんでした。続けて「しかし、キリスト教の本質は愛であるという観念的規定によって、祈りと活動の問題を簡単に整理してしまうことほど、大きなあやまりはない」と、むしろ手厳しく批判していたのです。

  愛することは、祈りを伴う事柄であることは間違いありません。祈ることなしには、自分は愛しているつもりでも、内実は自分自身の我を通しているだけのことだってありえます。

 こどもに、神さまが賦与してくださった賜物(タラント)を最大限に伸ばしてあげたい!と願うのは親心ですが、この親心が自我の我欲から自由にされていない「わがまま」な願望に頽落していれば、この親心がこどもを虐待することになりかねません。

 こどもを勉強嫌いにしたければ、この我欲から発した親心を行動に移せばよいのです。「勉強しなさい」と言い続ければ、ほぼ間違いなくこどもは「勉強嫌い」になるでしょう。つまり、親の心持ち次第で、こどもの才能は成熟しますが、逆に成長が阻害されもするでしょう。

 情欲に起源する情愛は、おのれの我欲の満足を求め、おのれの思いをとげようとします。神への愛、すなわち、神への祈りによって聖化された親心は、こどもを自由にします。

 自由にされた子どもは、自由に神さまによって賦与された賜物・贈り物を、原石からダイアモンドへと磨き上げてゆくでしょう。

 生まれてまだ2年しかたっていない幼児も、自由にされると、驚異的な集中現象を発現します。

 「もっと、他のお仕事をしてほしいな」とか、「ああ、そうじゃない」とか、親心が動きますが、その心が親の満足を得たいという我執であるときには、こどもの集中現象が阻まれることになりかねません。

  自分の心のなかにこうあってほしいのにとか、こうあるべきだなどという理想像をもって、こどもにそれを押しつけようとすると(大人でも同じです)、自由な関係性は破壊されてしまうのです。
 
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◆2月の聖句によせて   「正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる。」箴言14章34節(口語訳)

  • 2016.01.27 Wednesday
  • 13:44
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◆聖句によせて
「正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる。」 箴言14章34節(口語訳)
  『杉原千畝SUGIHARA CHIUNE』を観ました。ナチスの迫害を逃れてヴィザ発給を求めるユダヤ人6000人の命を救ったリトアニア領事館勤務の外交官を紹介した映画です。時の日本外務省の訓令に背いて発給したヴイザによって生きながらえられたユダヤ人の子孫は世界に数万人にのぼると言われます。
 イスラエル政府は、千畝の行為をたたえて、1985年、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅(ホロコースト)から自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人に感謝と敬意を示す称号である「諸国民の中の正義の人賞」を贈りました。日本人でこの称号を贈られた人物は、今日まで杉原千畝、ただ1人だけです。
 千畝は、最初の妻クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワとの結婚時代に、洗礼を受けロシア正教徒となりました。既に早稲田大学在学中、信交協会(現早稲田奉仕園、早稲田教会)に属し、キリストの言葉に深い感化を受けていました。


  昨年、いのちのことば社から『DVD 激動の20世紀を生きた三人のクリスチャン』が発行されました。これは、この杉原千畝と韓国釜山で三千人の戦争孤児を育てた田内千鶴子、そして日中戦争戦時下、命の危険のあるなかで中国人子弟の足を洗う(仕える)働きに献身した清水安三(園長の祖父)の三名を紹介したものでした。

  いずれもが、わが国が戦争という悲惨な時代に、平和をつくりだすために、国境を越えた愛の実践をしたキリスト者です。

 神が創造された、尊い人の命を奪い合うという愚かしい戦争の時代に、正義を貫くことは多くの困難を伴ったことでしょう。
 
 杉原も、外務省の訓令に背いたことを問われて、職を追われました。
 祖父も、「非国民」と中傷を受けたり、論説を寄稿していた新聞(『北京週報』)は軍部批判のために発禁処分を受けました。
 田内さんにしても戦後の韓国で日本人として生きることは複雑な思いをもってみられたのではないかと思います。
 しかし、これらの人々を魂の根底から支えていたものは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)というキリストの愛でした。

 ナチスのホロコースト、日本軍による南京大虐殺、広島・長崎の原爆・・・、戦争の悲惨は、二度と繰り返されてはなりません。けれども、人間の思いはかることは、繰り返し愚かな道を繰り返してきました。

 どうしたら、わたしたちはこの愚かな選択を回避できるでしょう。その方策を知るために、わたしたちは、歴史を単なる好奇心ではなく、学び直す必要があります。
 正確な歴史認識から、こどもたちの命を守る新に具体的な最良の道をさぐりだす責任があるのです。
 
 キリストの愛の魂をもって。

11月の聖句によせて 「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天を露をくだす。」 ゼカリヤ書8章12a節

  • 2015.11.05 Thursday
  • 00:59
「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天を露をくだす。」                             ゼカリヤ書8章12a節  
 昨日はリレー、今日はよさこいソーラン節と、秋の園庭ではこどもたち自らが、「先生やりたい!」と言い出して、協働の遊びが始まる姿を毎日のように観ることができます。

 ホザナ幼稚園では運動会の前も後も、リレーや玉入れ、ソーラン節は子どもたちの自由遊びのなかで「ブーム」になります。おしきせの練習ではなく、子どもたちの「やりたい」という気持ちが 尊重されます。
 運動会でもリレーをしました。年少から年長までまじったクラスですから、走る速さはまちまちです。それでも自分の順番がまわってくると、その子なりに精一杯に、しかも楽しく走ります。足の速い子も遅い子も、自分自身が力いっぱい走ること、その事自体に喜びを感じているのです。

 「足の遅い子のせいで負けた」とか「あのクラスはいいな、足が速い子がいるから」というような「比較」をする言葉は聞こえてきません。なかには勝負に負けて悔しくて泣く子もいますが、それでも足の遅い子を責めるようなことはありません。それぞれが力を出し切った満足感があるし、ほかのお友だちも精一杯に力を出し切ったということを知っているからです。だから、ホザナの運動会には、誰もが勝者です。走りきった事に誇りをもちます。

 聖書の世界では、しばしば人の成長を植物のそれにたとえます。

 土に種を蒔くことは、人にとって必要な「神の言」を伝えることと比喩されます。人として大切な信念、善悪の規範などは、「ことば」として語られ、吸収され、その人の中で、生きてゆくうえでの核心を形成してゆきます。やがて木は伸びて枝をはり、葉を茂らせ、実が結びます。成熟して豊かな実りをもたらす木は、生涯を通じて成長し続ける人の姿に似ているというのです。

  しかし、十分に熟すまでは実は青く、収穫するには時期尚早です。
 「時」が必要なのです。成長の「あいだ」のどの瞬間も、成熟に至るまでの「過程」です。

 その「過程」「あいだ」に実を摘んでしまっていけない。世話をしながら見守る必要があります。

 教え込もうとする「指導」は、どうしても教え込もうとする側のコンプレックスが反映してしまいます。

 そして、その思いは「こんなに言っているのになぜわからないのか」という攻撃性を誘発します。またあるいは「そんなに言うことを聞けないなら勝手にしろ」というネグレクトにもつながる。

 ぶどうの木にいくらそんな思いをぶつけても意味はありません。

  「あいだ」のどの瞬間を 切り取っても、実はそこに最良の「生の瞬間」があるはずです。

  それを教える側の願望(欲望)やコンプレックスによって短絡して、「できる子」「できない子」と速断してしまうと、「生の歓喜」が見えなくなります。

  それぞれの子どもは、それぞれに「固有の育ちのあいだ」を生きています。横並びで「比較」することは愚の骨頂。どの子も神さまから賜った固有の人生の「最高の瞬間」をいま生きている最中なのですから。
 
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7・8月の聖句によせて 「主はわたしたちを創られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」  詩編100編3節

  • 2015.07.01 Wednesday
  • 02:00
◆聖句によせて  「主はわたしたちを創られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」 
                                         詩編100編3節
 英語で「生き物」のことを、「クリーチャー」と言いますが、それは「創られたもの」を意味します。

 言葉が信仰と深いところで結びついているのです。

 仏教では、創造者を考えずに、「サットヴァ・カルマン」によって、あらゆる存在が生まれると考えます。(『存在の分析』櫻部建・上山春平)

 「サットヴァ」とは「有(う)情(じよう)」とか「衆(しゆ)生(じよう)」とか訳されている語で、この世に生命をもって存在するものを意味します。「カルマン」は「業(ごう)」と訳され、行為・動作を意味します。

 ですので、「サットヴァ・カルマン」とは生命あるものの行為、生命体の生活行動ということになります。

 生命あるものの行為・動作によって自然界が生み出されるというのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。

 この自然界とは別の場所に「他の、多くの」自然界が存在していて、その他の自然界に生存している「サットヴァ」の「カルマン」によってここの自然界が成立していると考えるのだそうです。つまり、創造者はいない。存在が存在するために、無限に、他の自然界があると想定し、その自然界の行為・動作によっていまここの自然界が成立するという訳です。

  わたしには、この無限に続く存在を存在あらしめる他の存在という想定には、始まりという出来事がありませんから、無理ではないかと思うのです。

 存在をあらしめる他の存在もまた別の存在を次々に想定してゆくのですが、その想定は無限に、「他の・別の」存在があるはずだという具合に結局、どこまでも果てしなく続く無限の彼方を想定しているだけのような気がします。そこには、存在の目的とか、存在の意味とか、存在の喜びとか、そういうことが何も考えられない無機質な考えのように思えてなりません。

 しかるに聖書には、あらゆる存在が、創造者なるお方の明確な創造行為があったとという存在観が示されています。

 存在者は全て、創造者なる神の意志、行為によって、無から有へと、非存在から存在へと呼び出されているというのです。
 
 存在者は、全て神さまが良しとされた。ここには明確な人格的な呼応関係があります。

 存在者は、あきらかに良きもの(存在)なのです。

 存在するものは、存在するだけで神の愛の対象であり、喜びの対象であり、価値あるものだという存在観が高らかに謳われているのです。

  そこに在るだけで価値があるというのです。
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◆9月の聖句によせて サムエルは答えた。「どうぞお話ください。しもべは聴いております。」サムエル記上3章10節

  • 2014.09.03 Wednesday
  • 11:57
 「信仰」というと、わたしたちは何かむずかしいことのように考えがちですが、実は「こども」こそ、もっとも純真な信仰を告白できる存在なのです。ひねくれてしまった大人が忘れてしまった無垢な魂を神さまは求めておられます。

 ちかごろ、よく「上から目線」という言葉を多用する人にしばしば遭遇しますが、たいていの場合、後味のわるい、嫌な気持ちにさせられます。

 それは、幼子サムエルが神さまに向かって示した純粋無垢で素直な従順な姿勢・態度が、このような言葉を使用する人々の内面から感じられないからです。

 サムエルが示したような信仰的従順が、「上から目線」を多用する人々には形成されていないのではないか。これは由々しきことだと思います。

  意味を調べてみると、「「上から目線」というのは、対等・あるいは自分より下の立場にいるはずなのに、相手の発言が上から物を言っているように聞こえるときに使う言葉。相手の人格を非難する言葉の一つ」という意味だそうです。

 なるほど、人格を否定する攻撃的言辞だから、言われた方から観れば、嫌な気持ちになるのは当然です。

 でも、どうなのでしょうか。「相手の発言が上から物を言っているように聞こえる」というのは、実は自分自身を「相手より上だと考えている」からそのように聞こえるのではないでしょうか。

 つまり、「上から目線」というのは、そのように言う人自身の心の立ち位置そのものの表出なのではないか。

 幼子サムエルの、「どうぞお話ください。しもべは聴きます」は、このような心のあり方と対極にある美しい態度です。


 神さまは、このような態度を準備している者にみことばを語ることができます。心を低くし、ひたすら神の言葉を聴く者となりたいものです。
 
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◆6月聖句によせて   「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」 使徒言行録1章8節

  • 2014.05.29 Thursday
  • 19:57
◆6月聖句によせて
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」
                                                                                                                            使徒言行録1章8節
  教会というところは、実は建物ではないのです。行田教会にも礼拝堂はありますが、これは礼拝を捧げる建物でして、教会そのものではありません。教会とは、共同体のことを指しています。また教会は、人の思いで形成された共同体ではありません。神さまの霊(聖霊)が、降って人々の魂にとどまり、あるいは人々のあいだにとどまり、人々を、それまでの人々とは異なった世界の人々にしてくださったというのです。

  この出来事を聖霊降臨(ペンテコステ)と言います。ユダヤ教の五旬祭の日に、この出来事が起こったので、ギリシャ語の50日を意味する言葉、ペンテコステと言われるようになりました。

  人の思いで教会共同体がはじまったのではないので、もし「宗教」というものを人の創ったものだと考えれば、教会共同体は、「宗教」と呼ぶのは間違いということになります。神さまの霊すなわち聖霊が人々に降ることによって教会共同体がこの世に誕生したからです。

  だから、教会は人間の願い事をかなえてくれる「神さま」を拝む所ではありません。神さまを礼拝するのは、神さまが、人々に礼拝することを望まれているから、人々は礼拝を捧げに礼拝堂に集います。「人は霊と真実をもって神を礼拝すべきである」と聖書に書かれているからこそ、人は礼拝を捧げるのです。


  人は元来、創造主なる神さまによって創造されました。しかし、罪によって、神さまから離れてしまい、神さまと隣人を愛せなくなってしまいました。けれども神さまは、罪深く塵にも等しい人間を、我が子として愛し抜こうと、神さまは人々を探し求めておられるのです。


   神さまは、独り子なる神イエス・キリストを、人々の罪をなきものとするために、身代わりとして十字架の死へと引き渡されました。イエスさまは、人々が受けたとしたら滅びる他はない罰を一身に引き受けられました。そして黄泉へと降られたのです。主イエスは、しかし神御自身と同質なるお方でありたもう主は、死に打ち勝ち、死を滅ぼされました。こうして主イエスはよみがえられたのです。


  よみがえられた主イエスを、まことの神として信じる人々は、死ぬことなく、地上の生活を終えたとしても、主イエスのよみがえりの生命と等しきさまへと変えられるのです。
 
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