2018年5月聖句によせて わたしは良い羊飼いです。ヨハネによる福音書10章11節

  • 2018.04.28 Saturday
  • 10:28

JUGEMテーマ:建学の精神

2018年5月聖句によせて

   「わたしは良い羊飼いです。」

                                      ヨハネによる福音書10章11節

 主イエス・キリストは、「わたしは良い羊飼いです。」と、ご自身を喩えられました。そしてわたしたちを「羊」だとも言われました。良い羊飼いは、羊のために命を棄てると言われました。羊の命を守るためです。


 神の独り子なる神だからこそ、わたしたちのために命を棄てることができました。棄てることができるのは、命を得ることもできるからからです。


 イエスさまは、命を得ることもできるお方でした。よみがえられたのです。復活の命をもってよみがえられました。だから、わたしたちは、イエスさまの復活の命にあずかり、死んでも生きることができるようになりました。


 わたしは良い羊飼いですというお言葉は、この命にかかわる真理がこめられています。


「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。生きている者は、永遠に死ぬことがない。」

 

 イエスさまは、わたしたちに命を与えてくださいました。


 イエスさまのこのお言葉を信じさえすれば、死ぬことはもはやないのだよ、と主イエスは、保証してくださったのです。


 すばらしいお言葉ですね。


 こどもたちを、みつめていると、この命の不思議さ、尊さ、美しさが、限りなく感じられてきます。

 

 こどもたちは、神さまの命の存在が確かなものだという現実を、証明している存在です。


 じっと、みつめ、じっと耳をすまして、神さまのいのちの息吹を全身全霊で感じとりましょう。

 

 そして、こころの奥深くから、覚悟を堅く固めようではありませんか。


 この命の尊厳を、わたしたちは、見守り続けます。

 神さまから贈られた尊い存在を、一個の独立した人格存在を、それ自体を尊び、守り、支え、育むことのために、わたしたちはこれからの人生を歩みますと。

 

 イエスさまが、愛してくださったように、わたしたちも愛することができますようにと。

 

2018年3月 三月の聖句によせて 「せんかたつくれども、希望(のぞみ)を失わず」(コリント後書4章8節(文語訳)

  • 2018.02.26 Monday
  • 16:56
  「せんかたつくれども、希望(のぞみ)を失わず」
                (コリント後書4章8節(文語訳)

 このパウロの言葉は、わたしの祖父清水安三が終生愛した言葉です。
 意味を知るために、わかりやすい現代の言葉、新共同訳と口語訳で紹介します。
   新共同訳と口語訳
コリントの信徒への手紙二 4章 8節〜9節 (新共同訳)
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
コリントの信徒への手紙二 4章 8節〜9節 (口語訳)
 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
 引用終わり

   この言葉「せんかたつくれども、希望(のぞみ)を失わず」が、全人格の真ん中に刻み込まれているとしたならば、どれほど、力強く生きることができるでしょうか。


 教育の目標に、「生きる力」を、国も掲げるようになりました。


 どんな苦境に陥っても、行き詰まらない。窮しない。

 なすべき事をすべてなして、もう万策つきても、決して希望を棄てない。

 虐げられても、迫害されても、殴られても、投げとばされても、決して滅ぼされない。

 

 そんな、ものすごくしぶとい、生きる力が充満して、尽きることのない生命力を、自分自身の奥深くにもっている。そういう人間に育てたい。


 これは教育者の究極の祈りです。

 

 こども自身の人格の最深部に、こういう確信が核心に存在している人間を育てるには、どうすればよいのか。


 それは、神さま(イエス・キリスト)が、わたしの人格の最深部に、核心に、共にいてくださるという確固たる信念・信仰によって培われると。わたしたちは考えます。


 それから、人格は、その人単独の存在をさしているのではなく、人格は隣人とのかかわりのなかでこそはじめて人格たりえる。

 

「虐げられても見捨てられず、迫害に会っても見捨てられない。」

 

 どんな苦境に陥っても、神と人から見捨てられることはないという確信は、他者・隣人・神との関係への確たる信頼によって築かれています。

 絶対他者からの見守りの確信。これほど強い生命力はほかにありません。

 

 

JUGEMテーマ:建学の精神

ホザナだより11月

  • 2017.10.31 Tuesday
  • 17:12

「ふたり、三人がわたしの名によって、集まるところには、わたしもその中にいる。」       マタイによる福音書18章20節

 

 「人間」という日本語は、関係存在を表示している言葉ですが、そもそも「ヒト」という存在は、単独では生存しておらず、その誕生から、終焉まで、関係存在なのであるという厳粛な事実を、またその存在の本質を表出していると言えましょう。

 

 

 

 幼児教育の主要な目的は、「ヒト」が関係存在として生きるということのために、いま与えられた諸条件のなかで、最善の環境を提供することにあります。

 

 主イエス・キリストは、この世に存在するという仕方を、神が選ばれたことにより、わたしたち人間と同じ姿をもって、この地上を歩かれました。それゆえに、神は、主イエス・キリストによって、わたしたち人間と同じ感覚をもたれた方として、わたしたちの隣に存在しておられます。

 

 

 わたしたちの痛みは、主イエスの痛みと同質の痛みであるので、神は、わたしたちの痛みを、ご自身の痛みとして、わたしたち自身の痛みをわたしたちと同じ痛みとして感覚しておられるのです。

 

 身体性をイエスという姿でもたれた神は、「ヒト」の痛みを、ご自身の痛みとして感覚されていたもう。この神の身体性こそ、受肉という事であり、この受肉という事こそ、「ヒト」が、身体が贖われる(贖罪=救い)根拠です。

 

 

 わたしたちの身体は、キリストの肢体によって贖われたがゆえに、「ヒト」は、神の肢体として、やがてはキリストに連なる枝々として永遠の生命を生きるようになる、これがキリストによる救いです。

 

  この教説は、キリスト信仰の概略です。

 

 実はこの教説を基礎として、幼児教育が始まっているのです。

 

 ただ子どもたちを育てるということは、特別な思想がなくても行われています。

 さまざまな、教育法が喧伝され、将来に不安を覚える親たちが早期教育や、スパルタ式のシゴキ教育に幻惑されるのは世の常です。

 

 

 しかし、本来の幼児教育は、そのような動機から創められたものではありません。

 

  世界最初の保育所は、牧師ジャン・フレデリック・オベリンによって、幼稚園は、フレーベル(牧師の息子)によって始められました。幼児教育の祖と言われるペスタロッチもキリスト者です。

 

  このように、幼児教育が創められる根本動機は、こども自身を、「神によって創造された尊い一個の人格存在として、他者との関係性を獲得してゆくために環境を整える」ということでした。

 

 

 主イエスは、「ヒト」と「ヒト」との「あいだ」には、「ヒト」を越えた超越者が存在し、超越しつつ、「ヒト」と「ヒト」のそれぞれの「個」にも、内在しているのだということを、生涯をとおして学んでゆくべき課題(賜物)として示されたのです。

 

  この課題には、特定の宗教の区別などありません。万人にとって、この課題は真実なのです。 

 

 

 

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◆1月の聖句によせて 「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」  エフェソの信徒への手紙6章15節

  • 2015.12.17 Thursday
  • 01:43
◆1月の聖句によせて
    「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」
                                エフェソの信徒への手紙6章15節
昭和のグレダ・ガルボ、原節子さんが天に召された。いままで一度も観たことがなかった彼女が出演した映画を、このところ立て続けに観ました。いずれも名匠小津安二郎作品です。 まず、『晩春』、そして『秋刀魚の味』、『東京物語』、『麦秋』。いずれの作品も、「家族」、「父と子」、「兄妹」、「子どもたち」のありふれた日常の風景が淡々とつづきます。戦争で徹底して傷つけられた民衆が、驚くほど幸福そうに生きている日常が静かに描かれます。そこはかとなく漂うのんびりとした庶民の暮らしは、観る者を癒してやみません。
こどもの頃は、10年とか20年とかいえば、とてつもなく長い年月のように思われたものでしたが、還暦もすぎると、あっというま間に思えます。
歴史の見方もまた熟して、戦後10年も経つか経たぬかの小津・原映画も、そう遠くないはない昔なのだという気がします。むしろほんの少し前の昔にすら感じます。若い方には、実感が湧かないかもしれません。今の日本は、ふたたび「戦前」の時代になってきています。
1930年代は、日本が戦争へとなだれこんでゆく時代でした。
現今の情勢、軍靴の音が聞こえてきそうな気配が感じられます。戦争というものは、愚かな指導者の責任だけではありません。当然それを黙然として声をあげず支持した民衆にもその責任の一端はあります。
 
  小津も原も、六千万人とも言われる犠牲者を出した戦争の生き残りでした。

 小津作品に底流する戦後の日本の「家庭の幸福」の背後には、深い悲しみから立ち直ろうと、悲しみをふりきろうとしている健気な祈りがあります。

  この戦後日本の幸福感を、今の時代に想起する意義はおそらく偶然ではないでしょう。

  ただ思い出すだけに留まることなく、深い省察と祈りをもって、堅固な意志、平和を創出する意志へと収斂させなくてはならないでしょう。幼いこどもたちを戦場におくるような事は決してあってはなりません。 わたしたちは、日常生活の小さな会話ひとつにも、平和を作りだす祈りと力をあふれさせる事ができるものです。

5月の聖句によせて

  • 2014.04.24 Thursday
  • 19:08
JUGEMテーマ:建学の精神

「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます。」 詩編145編14節

  「勉強しなさい」と言われた子どもは、まず勉強が嫌いになるのではないでしょうか。

子どもは本当に学びたがっているのです。学びたいこころを、「勉強しなさい」という干渉が折ってしまう。何故なのでしょうか。

  文部科学省が2013年春に実施した全国学力・学習状況調査(全国学力調査)の結果、「子供に『勉強しなさい』とよく言っている家庭ほど、子どもの学力は低くなる傾向が見られた」と発表されています。
 天才児と言われる子どもは、好きなことに熱中しだすと、数時間でも練習に没頭します。飽きるということがないのです。

 おそらく天才児は楽しくて仕方ないのです。「勉強」は「強いて勉める」と書きます。
 まさに字の如くで、「強いる」のですから、そこには、どこかに無理があるということでしょう。そこには我慢が伴うことになります。でも、我慢はやはり限界がありますし、効果もどうでしょうか。

 ハックルベリ−・フィンのお話を思い出します。

 彼は嫌な塀のペンキ塗りを楽しそうにやってみせて、友だちに仕事をまんまとやらせてしまいます。
 お話は彼の機転の良さを描いてみせますが、実はペンキ塗りが本当は面白い仕事だという経験を、彼はし損なっていると、わたしは思うのです。
 精巧な職人仕事は、何十年も訓練を重ねて磨き上げられます。職人さんは何時間でも細かい作業を丁寧に繰り返します。作り上げる作業を楽しむ心がなければ続くはずはありません。

 「お仕事」を通して、子どもたちは作業する楽しみを味わいます。夢中になって「お仕事」に没頭することによって、子どもたちは刻々と成長してゆきます。

 神の言葉は、子どもの魂に刻印され、強靱なレジリエンス(「逆境力」「復元力」「回復力」とか訳されている)を形成します。

  「神は人を支え起こしてくださる」。この神の言葉は、折れない心を育み、支える力の源になるでしょう。

 

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

  • 2014.04.14 Monday
  • 20:46
JUGEMテーマ:建学の精神
4月主題聖句
  「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
                                     イザヤ書40章11節
羊は、羊飼いの声を聞き分けます。羊飼いも羊の個体をすべて識別します。
この絆は、固く、文字通り生命をかけている絆です。
 群れからはぐれれば、ただちに生命が危機にさらされます。子羊はまっさきに命を狙われます。母羊も羊飼いも子羊を守らねばなりません。子羊を守るためには命の危険をかえりみず、ふるいたって狼や狐と闘います。
 羊飼いにとっては、羊の命と自分の命は同じくらいに大切なのです。
 砂漠遅滞を牧草を求めて旅する羊飼いにとって、命を繋いでくれるのは羊です。羊から乳を搾り、塩とまぜてチーズやバターをつくります。羊の肉を食べるのは生きてゆくためです。羊を食べることは自分の命を繋ぐためであり、それゆえ羊への深い愛着もあったことでしょう。愛する羊は自分自身の血肉となっていることを実感していたことでしょう。
 預言者は、神の民に対して、神さまと自分たちとの関係を、羊飼いと羊に喩えました。いかに主人である神さまが、羊である 神の民を愛してくださっているかを示すためです。羊と共に生き、そして死んでという暮らしをしていた人々にとっては、このたとえは愛をまさに「体感する」現実性をもっていたことでしょう。
 幼児にとって、保育者(父母・家族・親族・教師)から愛されているという強い確信を育むことは、幼稚園生活において、とても重要です。愛されているんだなという体験を毎日、繰り返しあじわうことでこどもたちは、深い次元で、魂の平安のなかで生きる喜びを体感するのです。
 現代は、子どもたちは、社会が作りだした時間の流れに翻弄されて、急がされ、我慢を強いられてしまがちです。わたしたちは賢い保育者になりたいと願います。
 こどもたちが、母体から出てきてまだ間もない小さな人です。
 環境のすべてが、小さな人を日々形成している重要な存在です。
 神さまが創造したもうたこの絶え間なく成長する可能性に充ち満ちた人が、猛烈な勢いで学ぼうとしている事実を、よく観察しましょう。そして愛情をもってみつめ、見守りましょう。今、この人は何をしたいのか。どうすればより適切な関わりとなるのか。学びましょう。
 聖書では、一日は夕方から始まります。こどもは夕方から眠りにつきます。子どもにとって一日は眠りから始まると言い換えましょう。眠っている間にこどもは大きく成長します。子どもの成長に合わせて大人は自分たちの生活を立て直すくらいの配慮がほしいものです。羊飼いが羊をみまもるように。

 

2月の聖句によせて

  • 2014.03.05 Wednesday
  • 20:07
◆聖句によせて
「平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」
                                                                              コリントの信徒への手紙僑隠馨錬隠雲
 平和を保つことがいかに困難なことか、わたしたちは日常生活でいやというほど経験しています。

 平穏な生活を送りたければ、人と接しないのが一番ですが、そういう訳にはいきません。一つの事柄をめぐってもさまざまな意見があり、ぶつかり合います。ぶつかりあいたくないけれども、否応なしにぶつかるのが人間というものです。

 上記の言葉は、使徒パウロが、お互いにぶつかりあうコリントの人々に向けて勧めています。

 でもわたしには、逆じゃないのかと思えるのです。
つまり、愛と平和の神さまが、わたしどもと共にいてくださるからこそ、平和になれるのではないかとね。

 しかし、順番は、「平和を保ちなさい。そうすれば云々」と続いているのです。

 どいうことなのでしょうか。「平和を保ちなさい」と言われて自分たちでそれができれば、世話がありません。自分たちではどうにも平和になれないので、わたしたちは困っているのです。

 では、「平和を保ちなさい」という意味は、他にもっと別の内容が秘められているのでしょうか。

 エーリヒ・フロムという心理学者だったかと記憶するのですが、『愛するということ』という本の中のただ一箇所だけ覚えている言葉があります(記憶が正しいことを祈ります)。

 それは「愛するということは意志である。」(そのとおりの文言かどうかはあやしいです)原著は、Die Kunst des Liebens 英訳では確か The Art of Life だったかと思います。当時、アートという言葉が不思議で印象に残りました。

 なるほど、愛するということには芸術的・技術的な側面があるのかと思いました。

 そうなんです。愛するには、ただ心のなかで思っているだけでは愛したことにはならないんだ。

 愛するには具体的な行為、技術が必要なんだと教えられたのです。

 モンテッソーリ教育では、大仰な褒め言葉を多用したり、競争意識をあおったりしません。

 これは現代心理学や脳科学の知見と一致しています。

 こどもたちを溺愛したら子どもの成長は阻害されますが、子ども自身の自律性を信頼して、適切な関わりをすることによって、こどもは大きな成長を遂げます。こどもを成長へと導くのは、この適切な関わりという技術、知見が必要だということです。

 平和を保つには、平和を作りだす技術が必要だということでしょう。

 どんなに叩かれても、攻撃されても、挫けない、撃たれ強い強靱な心身をもって、相手を愛するという意志において決して動揺しない人格を形成すること、これは技術と意志が必要ですです。

 イチロー選手の自己管理能力は技術と実行する意志に支えられています。

 心理学では、このような力をレジリエンス(「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」)と言います。レジリエンスに溢れる人格を形成することを目標にしましょう。

 
JUGEMテーマ:建学の精神

◆9月の聖句によせて 自分を愛するように隣人を愛しなさい。 レビ記19章18節

  • 2013.08.27 Tuesday
  • 09:14
 隣人を愛するということ、その「仕方」について、主イエスは、「自分を愛するように」という「HOW」をお示しになられました。  それでは、わたくしどもは、自分を愛するということを、わかっていない人々が、案外多くいるのではないでしょうか。「自分のこと大嫌い」という子どもや大人がいるからです。  これはいわゆる「自己嫌悪」という事柄とは違います。  「自己嫌悪」とは自己を嫌悪する「自己」が存在するという意味では、嫌悪するほうの「自己」が「嫌悪」されるべき「自己」を「嫌悪」すべき自己として冷静に評価している訳ですから、この場合、「嫌悪」する主体的自己は、「高み」を目指していると言えるでしょう。つまり向上心があるからこそ、自分のなかの罪を嫌悪するのでしょう。  それに対して、「自分なんて大嫌い」と叫ばずにおれない子どもや大人は、自尊感情(セルフ・エスティーム)が毀損されているのです。「セルフ・エスティーム」(自尊心 self-esteemとは、心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度。"ありのままの自分を尊重し受け入れる"こと。)が育っていないのです。  人は、自分自身のことでさえ、「愛する」ことが難しい。  実際、自分を愛するということは、いわゆる「エゴイズム」とか「エゴセントリシズム」という事とは訳が違います。「わたしは愛されている」という感覚的直感を有する人には、神様が愛したもう「自分」が確実に形成されています。  他者から無条件の愛を溢れんばかりに受けている人は、神様が愛する「自己」を愛する「術」(すべ)を知っています。  愛されるという経験をふんだんに享受した魂は、神様に応答する「心」が創られています。そして、愛された経験を臨界点以上にもつものは、他者への「愛し方」を自ずから知っていることでしょう。

2013年 5月の聖句によせて

  • 2013.04.30 Tuesday
  • 11:22
 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」      ヨハネの手紙14章19節
 神さまの愛(アガペー)は、人間の愛(エロース)とは区別されています。
 日本文化の歴史が流れてゆくなかで、「愛」という語が意味する内容は大きく変化してきたと言われています。
 キリスト教の福音が伝えられることによって、愛の意味にはアガペーの愛が存在するということが、文化全体に行き渡るようになりました。
 しかし、かつては「愛」という語には、利己的な欲望の実現を意味したエロースの愛の方が広く一般に信じられていたのです。
 「自分の思いを遂げる」ということが愛の中心的な意味であったのです。その意味での先鋭的な例はは、「心中」でした。思いを遂げるには互いに殺し合うという形しかない、これが理想化された「愛」の行く末でした。
 アガペーの愛は、イエス・キリストが示してくださった犠牲の愛でした。この愛は、神さまに由来する愛です。この愛が、わたしたち人間同志の愛を基礎付け、私たちが互いに愛し合うことができるようにしてくれました。わたしたちが、キリスト・イエスを信じ、仰ぎ、みつめ、絶えず祈るとき、わたしたちは、神さまから愛されている事実の確信に満たされます。

                    主を仰ぎ見れば古きわれは
                    うつし世と共に速(と)く去りゆき
                    我ならぬわれの現われきて
                  見ずや天地(あめつち)ぞ改まれる

 「我ならぬ我があらわれきて」、というのは、神さまに愛されている確信に満たされるとき、「もはや〈わたし〉が生きているのではなく、〈わたし〉のなかにキリストが生きているのだ」というべき出来事が起きていて、そのキリストと共に在る〈わたし〉が立ち現れる、と言う消息を表現しています。そうすると、天地・宇宙が更新されるという信仰の現実が生起するというのです。

2013年」1月の聖句によせて

  • 2013.01.11 Friday
  • 13:17
 ◆聖句によせて
「あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」
                   フィリピの信徒への手紙1章9〜10節
 赤ちゃんは、ものすごい勢いで成長しています。一生懸命にものを見つめます。その観察力は大人をはるかにしのぐものだと言われています。意外なことですが赤ちゃんの識別能力は成人より高いのだそうです。
 赤ちゃんに、異なった猿の顔を見せると、赤ちゃんがしっかり識別していることが実験でわかるそうです。それに対して大人は異なった猿の相違を識別できないのだそうです。しかし、赤ちゃんのこの識別力は、その時期に必要な識別力であり、やがてそのような識別力は失われ、必要な認識力の獲得の段階へと移行してゆきます。どうやら成長するということは、必要な能力だけに的をしぼって、不必要な能力を捨てて行くということでもあるようなのです。
 こどもたちは生涯を通して成長し続けます。大人のわたしたちもまた成長の途上にあります。人生の黄昏を迎えようとするわたしでさえ、成長の途上なのです。もうこれでいいという事は決してありません。人生は何が重要で何が重要でないのか、選択の連続とも言えます。「生きる力」を養うということが教育の目標だと言われますが、生きる力は、ます生きようとうする意志がなければそもそも養いようがありません。生きようとする力は、何かを捨てて、何かを鍛えるという選択の意志でしょう。
 人生の若い時期に、神を知ることほど重要な選択はないでしょう。神さまほど偉大な存在はないからです。神さまは力の源であり、目的であり、よりどころです。人間を超越した存在に常に畏敬をもって生きる生き方とそうでない生き方には自ずから相違が出てくるものです。神さま(イエス)は人生いかに生きるべきかという倫理的なモデルを明示してくれる方です。神さまはものの考え方、見つめ方を正確に、厳密に識別する力を要求されるがゆえに、わたしたちは物事を識別する力が養われるでしょう。
 聖書は、ビブロス、つまり端的に「本」という意味です。聖書を大切に読むということを教会は伝統として引き継いできました。聖書は神の言葉であり、神の民の歴史であり、神の啓示の書物だと信じてきました。それは「そうだからそうだとしか言えない」という信仰によって引き継がれてきました。そのため聖書を読むということを、幼い時から真剣に学び、教えてきたのです。そのために、読む力、識別する力が鍛錬される事になったのです。世界的な知性人が聖書の民から生まれてきた事実を私たちは多く知っています。私たちも今日から聖書を読む民の仲間入りを致しましょう。

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