2018年1月聖句によせて

  • 2017.12.16 Saturday
  • 01:03

  「見よ、わたしはあなたと共にいる。」 創世記28章15節

 

 極限的思考と日常的思考は、共に大切な思考のあり方です。


 極限的思考とは、常に「死」を身近にしながら、「人間としての尊厳をもって生きるということはどういう生き方であるのか」を、自問自答しながら生きてゆくことです。

 

 そういう究極の極限状況としての「死」を人生の日々のなかで、意識してゆく、そのとき、自ずから思考のあり方は、そうでない生き方とは違ったものとなるでしょう。

 

 だから、「メメント・モリ(羅: memento mori)」(汝、死を忘るることなかれ)は、来世を夢想することなどではなく、死に限界づけられた「生」の意味をこそ、むしろ先鋭的に問うという意義があるのです。

 
 日常的思考は、「死」を意識しつつ生の意義や尊厳を吟味しつつ生きるという根源的な態度も、日常的な些細な感情や、思いと、かけ離れているはずもなく、小さな出来事、微細なことばのやりとりや、受けとめという日々のありふれた、「平凡な生活Ordinary life」において、それは現れてくるべきであり、極限的思考は、日常生活のなかで、日常的思考のなかに自然と溶け合いながら現実化してゆくべきものでしょう。

 

 極限的思考は哲学徒や思想家だけのものではなく、誰でもが、生きているこの日常的思考に反映されてゆくべきものでしょう。


 カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した理由は、「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた。」とされています。

 

 『わたしを離さないで』(わたしをはなさないで、原題:Never Let Me Go)は、クローン技術を手にした人類が、ある人の延命のために、「製造された人」を臓器を摘出するという目的のために、一定の期間、「飼育」するという閉鎖的環境のなかで、自らの運命を受け入れながら、「もの」としての生かされる少年少女の感情世界を描き出した作品です。

 

 ここで描かれた世界はフィクションですが、根源的な意味においては、太古の昔から現実そのものでもありました。人をモノ、IT(ソレ)として扱う〈モノノミカタ〉は奴隷制や、現在も存在する人身売買において顕著と言わねばなりません。


 わたしたちが、日常的に思考する、そこに溶け込んでいる極限的な思考を洞察するとき、わたしたち自身、わたしたちの子どもたちに、どのような生き方を、望んでいるでしょうか。「この生き方は果たして正しいのか」どうか、日々の小さな思考の連続のなかに、 〈考える人〉に、こどもたちを育ててゆきたいと、祈るものです。

 

 

2017年9月 ◆聖句によせて   「求めなさい。そうすれば、与えらる。」  マタイ7章7節

  • 2017.08.25 Friday
  • 19:31

JUGEMテーマ:建学の精神

 ◆聖句によせて   「求めなさい。そうすれば、与えられる。」  マタイ7章7節

   求めるということは、惹かれるということがあるので、求めるのでしょう。

好きな人に会いたい、という場合には、好きなその人に惹かれる(魅せられる、惹きつけられる、思いを寄せる・・・) ので、その人と一緒にいることを求めるのでしょう。

 一緒にいたいという願いは、そう願うこと自体が喜びですし、その願いを成就することは、好きな人から好かれる自分自身でありたいという願いをも含みますので、自分自身を、磨くようになります。これが「求める」ということなのでしょう。


 強く願うということもあるでしょう。

 ある学校に入りたいと、強く願うようになると、その学校に入るために惜しまず努力することは苦ではなくなります。

 それは、はっきりとした目標があるからです。 目標がはっきりと定まらないと、努力は苦役になります。何のための努力かわからないからです。つまりは、その場合は求めてはいないからです。求めているのであれば、努力も勤勉も、それは愉快な楽しみとなります。

 ひとつひとつの目標を通過するごとに達成感という報償、喜びが脳を満たします。

 わたしたちはその喜びを再び得たいと願い、さらに次の目標達成をはかります。これが、「求める」ということなのでしょう。

 
万有引力とは Universal gravitation is the power of solitudes
ひき合う孤独の力である pulling each other
宇宙はひずんでいる Because the universe is distorted,
それ故みんなはもとめ合う we all seek for one another.


   谷川俊太郎の詩「二十億光年の孤独」の一節です。


  すべての存在者には、存在する事自体で、引き合う力が働いています。

 その力とは、互いに惹きつけ合うところの「孤独」だというのです。

 詩人は「孤独」だから、互いに惹きつけ合うというのです。

 

 さらに、宇宙は時空がひずんでいる、ゆがんでいるので、すべての存在は「求め合う」と。

 素晴らしい洞察ですね。宇宙のひずみ、歪みが、互いに求め合う力だというのです。

 

 神は、そのようなもの、すなわちあらゆる存在を、たえず惹かれあい、求め合い動いてゆく存在として創造したもうたというのです。


 主イエスは、「求めなさい」と命じられました。

 

 わたしたちは時々、目標を見失って、惹かれ合うことを忘れるからでしょう。

 求め合うことは、わたしたちが存在する本来的な本質に基づいているのです。

 

 こどもたちをよく観察してみてください。

 たえず、何かを求めています。探しています。その力を信じましょう。

◆6月聖句によせて 「これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」                詩編118編23節

  • 2017.07.01 Saturday
  • 01:37

 ◆6月聖句によせて
「これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」                詩編118編23節
   「なんてェー、すばあらしいせかいいー!」 「What a wonderful world! 」
礼拝で、子どもたちは、この世界が創造主によって創られた世界であり、また、この世界が、人間にとって、このうえなく素晴らしい世界であることを賛美しています。

 

 聖書は、創世記において、創造主が世界を創造したという信仰を高らかに謳っているからです。

 

 聖書の世界では、世界が、偶然、この世界になったとは考えません。もし世界が偶然の産物と断定してしまうとすれば、それ以上に、感動も思索もそこで停止してしまうでしょう。

 

 この世界に満ち満ちている「不思議さ(ワンダー)」を、ただ「偶然」と名付けて、片づけた瞬間に、「不思議さ」は、きっと何かの機械的な原因と結果の連鎖で説明されるべき現象にすぎないものとされ、感動の充溢は忘れ去れるでしょう。世界に充満している「不思議さ」に驚くこと(タウマイゼン)こそが、「知的探求の始まり」(プラトン・アリストテレス)であり、この世界の「不思議さ」を感じとる感性(センス・オブ・ワンダー)は、世界を愛し、責任をもって保持する倫理的な基礎と言えるでしょう。


 心理学者のアドラーは、人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が「意味づけ」した世界に生きていると説きました。

 

 同じような「経験」をしたとしても、自分がその「経験」に、いかなる「意味づけ」をするかによって、世界がまるで違って感じられてきます。

 

 彼は、人が、人生や自分についてしている「意味づけ」を、「ライフスタイル」と呼び、

 崋分が自分のことをどう見ているか(自己概念)」、

◆崑昭圓魎泙狎こΔ鬚匹思っているか(世界像)」、

「自分及び世界についてどのような理想を抱いているか(自己理想)」を包括した信念体系と理解します。

 

 彼によれば、人は、「5歳の終わりまでに自分のライフスタイルを採用する」といいます。

 

 幼稚園時代こそは、人生で最重要な時期なのです。

 

 人生を、意味あるものとしてまっとうしてゆくための、「ライフスタイル」の決断は、もとより本人の責任ですが、この決定にとって、「環境」、とりわけ、「親子関係」は大きな影響因です。

 幼稚園での教育環境(教育観、世界観)も重要な影響因となるでしょう。(『人生の意味の心理学』)


 自分自身が、神に愛されている存在だということ(自己概念)、

 世界は神が人のために創造した賜物であり、自分が責任をもって、愛し保持するべくまかされているということ(世界像)、

 そして、自分はこの世界を、神が愛する世界として、自分自身に与えられている賜物(ギフト)を活かし、成長させることが、神の願われることであり、したがって自分自身が活かされる道である(自己理想)ことを、

 

 明確に伝えることを、私たちは、家族の皆さまと共に、祈り、めざして行きます。

 

 

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2月の聖句によせて 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」コリント僑款錬隠言

  • 2017.01.30 Monday
  • 02:02

2月の聖句によせて 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」コリント僑款錬隠言

 

 こころは存在します。こころの動きは、表情、言葉、ふるまいなど外側に現れ出てくるものによって観ることができます。

 

 しかし、「これがこころです」と言って、取り出して見せることはできません。

 

 脳内でこころが働いているのかもしれませんが、それを部分として取り出すということは、できないので、観ることができないのです。

 

 それで、目には見えないこころの中で思っていることと、目に見える外側に現すこととを、ことさら変えるという器用なことも、人間にはできてしまいます。

 

 「面従腹背」(表面では服従するように見せかけて、内心では反抗すること)というような心の態度は、その典型です。

 

 「面従腹背」のような心の態度とは、つまりは自分の本心を隠して、他者を欺くことですので、偽りの態度ということになります。

 

 どこまでも他者には、本心を隠し通し、目に見える外側では偽りの仮面をかぶりつづけなければなりません。

 

 このような偽善的態度(善では無いことを善と騙すこと。上辺だけ良いことだと見せかけること)は、隣人との信頼の関係を築くことを困難にするでしょう。

 

  こどもには、このような器用なことはできません。

 

  こどもは、こころに思うことが、外側に正直に表出します。

 

  だからこそ、主イエスは、こどものようなものでなければ神の国を観ることはできないと言われました。

 

  表裏のない正直なこころを神は愛されます。

 

  わたしたちもそのような率直な態度を愛します。偽りの仮面によって欺いていることが判れば、人は裏切られたと感じます。そこには嘘があるからです。嘘は人と人との関係を破壊します。

 

 そえゆえに、古来、あらゆる宗教や道徳は、「嘘をついてはならない」という戒めを、人間倫理の根本として教え続けてきました。

 嘘を1度つくと、その嘘を糊塗(一時しのぎにごまかすこと。その場をとりつくろうこと。)しようとすれば更に嘘を重ね、やがて雪だるまのようにふくれあがります。そして必ずその嘘は明らかにされます。

 

 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(マルコ4章22節)

 

 幼児期に、この「真理」を魂の奥底に届くまでに浸透した人は、生涯の宝を得ることになるでしょう。

 

 人のうわべを観て判断しない。むしろうわべに現れてはこない眼には見えない本質を見きわめる、見定める、深くて広い、「ものの見方」を養うことは、なんぴとにとっても大切な事柄です。

 

 眼には見えない事柄にこそ、眼を注ぐこと。

 

 信仰的なものの見方とは、そういう日常的感覚のさらに深い世界を洞察することですが、それは既に幼児期に、その基礎が養われるのです。

 

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12月の聖句によせて 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」 ルカによる福音書2章14節

  • 2015.11.30 Monday
  • 13:02
◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ>
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」
                                    ルカによる福音書2章14節
   この言葉は、願い、求めていることばです。ひとの言葉ではなく、神の言葉です。
人が、自分の願いを求めているのではなく、神さまは願い求めておられるのです。
このことは、とても重要なことです。人の願いは利他的であるよりも利己的で、狭量で、自分勝手なことが多いのではないでしょうか。「苦しい時の神頼み」とか、自分の都合次第で神さまを呼び出したり、引っ込めたりして、神さまを自分の願いを聞いてくれる「しもべ」のように扱ったりしているのが罪深いわたしたちの姿ではないでしょうか。そういうご都合主義の「神頼み」の役者のように扱うところに、わたしたちの「罪」があります。神さまを神さまとして信じようとしていないからです。神さまは全宇宙の創造者であられるお方なのに、わたしたちは、自分の都合で、都合のよい「神」(偶像)を創造しているのです。神さまは、そのような「木偶(でく)」ではありません。
この「神の言葉」は、創造者なる神がわたしたちにむけて語ってくださった祝福です。人の邪悪さに満ちた「願望」の言葉ではなく、神さまが創造者として、創られた世界に向けて、神さまと世界の関係が、そして世界が、どのようであってほしいかを明確に、「神には栄光」「地には平和」であると示してくださった恵みの言葉です。
神さまは、どこまでも、真実に神さまでありたもう。どこまでも真実に神さまであられる方に、すべての栄光が帰せられるということが、地の(つまり被造者の)地である存在の本来的な、唯一のあり方なのだということを、ご自身が宣言したのです。それゆえ、人の誉れも、自然の美も、人や自然にではなく、すべては創造者なる神さまにのみ栄光が帰せられるべき存在だというのです。
地は、どこまでも、地であり、神になりかわる存在ではなく、神の創造物として、「神の偉大な力」を反映した「もの」である。それゆえに、そこには神の意志、神の力、神の「願い求め」が反射、反映しているのであるから、そのようなものとして、地を、本来あるべき姿の地として、あらしめるようにと神は、神ご自身の「願い求め」を宣言されたのです。
この宣言を、実現する神の似姿として、地上に「受肉」したもうた「独り子なる神」こそが、主イエス・キリストです。
主イエスが、地上の人の魂に受肉し、世界が神の国(神の支配)となること、これが平和の実現です。ひとりひとりに主イエスが来られるように。
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2015年3月の聖句によせて「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れだす。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」 

  • 2015.03.03 Tuesday
  • 15:47
◆聖句によせて 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れだす。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」    
                                   ヨハネによる福音書10章3〜4節  
 人類と動物は共生して生きてきました。野生の動物を家畜として飼育することで、食物を得ていたことは無論のこと、動物との深い心の絆によって支えられてきました。とりわけ、聖書の世界では、羊は人間との深い交わりをもつ家畜として、主イエス・キリストのたとえ話にも多く登場します。

 ここで示したこのイエスさまのお言葉は、ご自分を「羊飼い」になぞらえ、「羊」は、主イエスのあとを、従順に信じて生きてゆこうとする人々を暗示しています。

 「羊」は、まことに信仰深い、素直で従順な性格を代表する動物とみなされていたのです。

 現代でも、羊飼いは中東では昔ながらの生活を営んでいます。

 彼らは一頭一頭の個性をすべてを熟知していて、識別します。また羊飼い同士で連絡を取り合う時には、独特の歌というか声を出して、何百メートルも離れていても、さまざまなメッセージを伝え合うことができます。羊は羊で、羊飼いの声を正確に識別し、他人の声には決して従いません。主人の声だけに従うのです。

 羊との深い絆をもっている羊飼いは、羊が迷い出ていゆくと、どこまでも探しに出かけてゆきます。急峻な崖、渓谷にも、危険をおかして探し回ります。荒れ地には、猛獣が住み、捕食者として羊も人も襲う危険が充ち満ちています。それでも、羊との堅くて、深い絆をもった羊飼いは、黙々と探し続けます。そのとき、羊の群れはどうしているでしょうか。主人は、迷い子となった羊を探しに遠くへと旅だってしまいました。あとに残された羊の群れは、自分たちで捕食者から身を守ることができるでしょうか。そんなときに、羊飼いの有力な共である牧羊犬が力を発揮します。

  シェパードは牧羊犬で、元来「羊飼い」を意味していました。羊飼いの忠実な助手として、牧羊犬は主人の留守の間、羊の群れを守ります。

 狼、狐などが仕留めやすい弱いこどもの羊にねらいをつけて虎視たんたんと物陰に潜んでいることでしょう。耳と鼻に神経を集中して、牧羊犬は捕食者の襲撃に備えます。羊と犬は、互いに信頼しあって、主人の帰りを待ちます。彼らは主人から「捨てられた」とは決して考えません。自分がもし迷い子の立場になったとしたら、主人は、やはり自分のことを、どこまでも見つけだすまで、探してくれるということを知っているからです。

 わたしたちもまた、神さまと、またお互いとの間に、切っても切れない絆をもって生きるようにと、イエスさまは、このお言葉を示してくださったのではないでしょうか。
 
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「見よ、兄弟がともにすわっている。なんという恵み、なんという喜び。」 詩編133編1節

  • 2015.01.14 Wednesday
  • 13:06
◆聖句によせて 「見よ、兄弟がともにすわっている。なんという恵み、なんという喜び。」        詩編133編1節  

    孤独感、絶望感、疎外感、世界で自分がたったひとりで苦しんでいる。自分がこの世にいるということは無意味なような気がする。・・・こんな気持ちになることがあります。いろいろな事情や原因で、どん底の境地に落ち込んでしまう。

 いや、そんな気持ちになったことは一度もない。そんな気持ちでいるから、ますます何事もうまくいかないんだ。もっと覇気をもたないといかんよ。キミイ。・・・・そんな元気のいい励ましなのか揶揄なのかお叱りがきこえてきそうですが。

 個々の事情はともかく、誰でも落ち込むことはあるのではないでしょうか。わたしも人生の危機ともいうような経験は、思い返すとあった気がします。でも、よく考えると、そんな一番弱くなった時の自分は、一番成長したときでもあったなあと感じるのです。

「見よ、兄弟がともにすわっている。なんという恵み、なんという喜び。」

 この詩編の言葉をそのまま歌詞にした讃美歌があります。塩田泉神父さまがつくった讃美歌です。ある日の礼拝で、この讃美歌を歌っていたときのことです。わたしは、涙がとめどなくあふれてくる体験をしました。

 見よ、兄弟がともにすわっている。なんという恵み、なんという喜び。


 もう理屈を超えた感謝の念が溢れてくるのです。兄弟がともにすわっている。  

 その奇跡的な有り難さが、ありがたくてありがたくてしかたがないのです。  

 自分にも、「兄弟」と呼べる存在がいる。  
 
 どこの誰ということでもありませんが、神様にあって、この、個人的な交友関係で言えば、知己でもないのだけれども、主イエス・キリストのもとで、私たちと呼び合う兄弟姉妹がいるのだ。わたしはこの兄弟姉妹を、「知りあい」なので愛するのではなく、見ず知らずであっても、主イエス・キリストにあって、わかちがたい絆で結ばれているがゆえに愛さないではいられないのだ。  
  わたしにも愛する人々がいて、わたしもこの愛の絆のなかで愛されている。   

 礼拝堂で、讃美歌を歌うという行為のなかで起こる奇跡的事件でした。   

 絶望感・疎外感にうち沈んでいるときにこそ、弱さに負けて背中を丸めている時にこそ、わたしは、この奇跡的事件に遭遇する恵みを受けました。そして大きく背を伸ばすことができたのです。   

  クリスマスの奇跡が、今年もたくさんの奇跡を起こすことでしょう。
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12月の聖句によせて

  • 2014.03.05 Wednesday
  • 19:36
◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ>  「エフラタのベツレヘムよ  お前はユダの氏族の中でいと小さき者。  お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」                      ミカ書5章1節
 主イエスさまは、いと小さき者の神です。
 聖書には、小さい者が大きな者に立ち向かい勝利をおさめる少年ダビデの物語があります。
 神さまは外見ではなく内心の魂を観られます。
 ダビデは羊飼いの少年にすぎませんでしたが、神さまの選びたもうた王さまだったのです。イスラエルの民は、小さな少年に神さまの力が宿っていることを信じました。イスラエル民族の命運を少年に託したのです。
 少年ダビデには、通常わたしたちがイメージしているような威厳があったとは思えません。ですから民らは彼の外見を観て従ったのでないでしょう。彼は見るからに華奢で、美しく芸術を愛する少年でしたから、王さまというより詩人か音楽家に見えたことでしょう。どうして民らはダビデに従ったのでしょう。
 わたしは思うのですが、それはこの小さな者に、神さまからの特別な王としての「選び」がある、神さまが彼を用いているのだと、信じていたからではないでしょうか。
 イエスさまは、このダビデ王の子孫であるヨセフさんの家に生まれました。
 「ダビデの子」と呼ばれるのは、メシア(キリスト)はダビデ王の末裔だという期待があったからでしょう。  でも、王さまの子孫だからといって、ヨセフさんは決して裕福な家柄だった訳でも、王さまだった訳でもありません。しかも、イエスさまとヨセフさんとは、血でつながった親子ではありませんでした。イエスさまは母マリアさんが聖霊によって身ごもったと聖書は伝えています。神さまの力によって、神さまのひとり子としてお生まれになったのです。
 人々は、こどもは父と母によって生まれてくると経験から知っています。この経験則は、イエスさまの御誕生を危険にさらしたことは、まず間違いありません。ヨセフさんは、身ごもったマリアさんを密かに離縁しようとしたほどでした。ですから、イエスさまの御誕生は、王の王としてお生まれになったにもかかわらず、この世では、いと小さき者としてお生まれになったということなのです。
 イエスさまは、いと小さき者(それはすべての人間です。)をすべての罪悪から救い出されるために、おん自ら、小さき者のなかの小さき者としてお生まれになられたのではないかと、わたしには思えるのです。
 ホザナでは、いと小さき者をこそ目をとめられるイエスさまのように、いと小さき者をこそ大切にしようという優しい心を育てたいと祈り続けています。
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聖句によせて

  • 2013.11.29 Friday
  • 16:31
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11月の聖句によせて  「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。」

  • 2013.10.30 Wednesday
  • 15:53
「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。」 フィリピの信徒への手紙4章6節

 ある種の血圧降下剤を常用していると、気分が鬱的になりがちだという医師の本を読んでいるせいか、私としては、気分が塞ぎがちになると、そのことを思い出して「いかん、いかん、思考がネガティブになっているぞ」と自分自身に言い聞かせ、血圧降下剤のせいにしています。

 鬱的になると、身体までも重くなるような気がします(もっとも現実的に体重は重いのですが)。

  二千年前に、ひとりの青年が語った言葉が、世界中の人々の魂を支えています。

「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。」

 これが神の言葉だと言うのですから、従う他はありません。

「はい、主よ。きっぱりと思いわずらうのはやめにします。」こう言わざるをえません。 なにしろ神さまの命令ですから。  そうはいうものの、そう思い切ったつもりが、またまた心配事がムクムクと胸を去来してきては、気分を塞ぎます。

 こういう時は、たいてい「思考の流れ」が慣性の法則にしたがって自由な動きができず、大概決まった方向にしか流れて行きません。「思考の癖」というべきでしょうか。こういう流れをグルグルと堂々巡りしてますます落ち込んでしまう。

「この『思考の癖』から抜け出したい。」
「そうでないと、イエスさまの命令に従ったことにならない。」

 こんなとき、わたしはイエスさまのことや信仰の偉人たちのことを思い返すことにしています。

 イエスさま、アッシジのフランシスコ、田中正造・・・、そして祖父母のことなど。

イエスさまもフランシスコもただ神さまだけに頼って、客観的に見ると、ホームレスのような生活を送りました。

「そうだ、この世の富により頼むのではなく、ただ神さまだけを信じていれば、どんな境遇でも感謝に満ちた日々が送れるではないか・・・・・。」

 ヘミングウェイは生涯自分は貧乏だという観念に縛られて自分は不幸だと感じていたとどこかで聞きました。これも思考の癖みたいなものなんでしょうね。

 自由ってなんだろう。もしかすると、無一物なのに、世界中が神さまからいただいた授かり物だと感じられる心のありようなのかなぁ・・・。

 フランシスコは裕福な商家に生まれたけれども、一切の財物を貧者に施し、自ら施しだけで生きてゆく決心をしました。それが自由ということなのかもしれないな。

 こう考えてくると、「よし、今日から一意専心して神と人に仕えてゆくなら、なんくるないさぁ(人事を尽くして天命を待つという意味らしいです)。」

 こんな風に考えられるようになりたいものですね。

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