2018年11月 聖句によせて  「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

  • 2018.10.28 Sunday
  • 21:34

    「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」
                            ヨハネによる福音書15章1節   

イエス・キリストがご自身を語る独特な比喩です。「わたしは〜である」と言いきっておられます。もちろん比喩であることは一目瞭然です。
「ぶどうの木」という比喩を聴いたときに、わたしたちが想像力が全開して、さまざまなイメージの世界へと導かれます。

 

 このイエスさまの自己開示を、わたしたち自身が、どのように受けとめ、それを自分自身の人格を形成し、陶冶し、支える「神の言」としてゆけるのか。

 言い換えると、信仰の言として、この言葉を魂から受けとめることができるかどうかで、この言葉を生きてゆく霊の糧とできるか、素通りするかがほぼ決まります。


 イエスは、「人はパンのみにて生くるにあらず。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる。」と語られました。

 

 苦難の最中で、呻吟しながらも、神の言葉にすがり、支えられて、再び生きる力を取り戻してゆくという体験は誰にでもあるでしょう。たとえ、その支える言葉が、実は神の口から出ているという事実を知らない場合であってもです

 


 イエスは父なる神とご自身との関係を父子として自覚されていました。

 

 イエスの地上での父ヨセフは大工でしたから、「わたしの父は農夫」と言われているのは「父なる神」を指していると考えられるからです。


 「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。」

 

 イエスは神とご自身との関係を父子として、かつわたしたち人間とご自身との関係を、「ぶどうの木」と「その枝」と言われました。
 この比喩により、わたしたちと神さまとの関係もまた、「父子」であることを宣言されていることになります。

 

 主イエスの存在につながっている「枝」であるわたしたちは人間は、主イエスの肢体の一部だというのです。

 すなわち、主イエスは、わたしたち人間と神さまとの関係は、主イエスの枝であるがゆえに、「父子」なのだというのです。わたしたちは創造主なる神を、「父よ」と呼びうる存在なのだとイエスは宣言してくださったのです。

 
 なんという恵みでしょうか。わたしたちは、神さまから、「子よ」と呼ばれるものとされているというのです。

 

 子どもたちひとりは、主イエスの「枝」であるのですから「神の子」なのです。

 尊い存在なのです。そのような視点で、こどもたちをみつめることが教育の原点であるべきでしょう。

 

 子どもたちはひとしく尊い神の子なのです。       

JUGEMテーマ:建学の精神

2018年10月聖句によせて 「わたしは植え、アポロは注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」    

  • 2018.10.01 Monday
  • 22:34

◆聖句によせて 「わたしは植え、アポロは注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」    

                                                 コリントの信徒への手紙毅馨錬鏡
 わたしたちは、数え切れないほどに多くの人々の「おかげ」をこうむって生きています。どんなにあがいても、自分が生まれてくる場所や環境を自分が選んで生まれてくるという選択肢をもって生まれてくることはできません。わたしたちは、それを運命とか宿命とかの言葉で表現せずに、神さまの意思によって生まれて来たととらえます。何かの法則とか、定めとかではなくて、創造者なる神さまの明確な意思、決断が、ひとりひとりに注がれているし、いま、この瞬間も神さまの見守りのなかで生きている、そう世界をとらえています。

 

 今日、誰と出会い、どんな会話をして、どんな気持ちになるか。それもこれも神さまの見守りのうちに、私たちは、神さまの願いを浴びながら生きている。


 出会いさせていただく人々、大人たち、お友だち、お店の人、幼稚園の先生・・・。こどもたちの出合う環境世界は、神さまのはかりしれないご計画、御意志によって、わたしたち(こどもたち)に備えられた恵みの世界です。


 この素晴らしい出会いによって、わたしたち(こどもたち)は、着実に、ひとりひとり、それぞれに「成熟」「成長」が心身に生起しています。この毎日の微妙な変化に、静まって目を凝らし、耳をすませて、思いめぐらしましょう。この日々変えられている「成長」の徴を喜びましょう。この喜びを喜び、神さまへの賛美としましょう。


 使徒パウロは、神の愛の福音を全世界の人々に伝えましたが、実際には出合った一人一人に伝えたのです。伝えられた人がまた他の人に伝えて、世界に神の愛の福音は伝わって、人類の生きる支えとなっています。しかし彼は、「わたしは植えた」と言い、そして「アポロは注いだ」と加えたのです。彼は、愛の福音が伝わってゆく力の根源は、決して自分の能力によるものとはしなかったのです。

 

  出会う環境世界のすべては、神さまが備えてくださっている。

 

 多くの人びとが、わたしたち(こどもたち)の「成長」を促してくれている。

 

 この環境世界(神さまに用意された世界)への揺るぎない信頼感が、人格を豊かに「成長」させてくれると考えたのです。

 

 さらに肝心な事は、わたしたち(こどもたち)自身が、実はどのような苛酷な環境に出会っても、それを自分自身を高み・深み・広がりの世界へと導くものとして昇華させる力(生きる力)を、神より賜っているのだという「自己」を信じることでもありました(自己肯定感)。

 


 自己をとりまく環境世界への信頼、自己自身への深い信頼、自己肯定感に充満した人格形成こそ、私たちの目標です。信頼こそが信仰なのです。

 

 

JUGEMテーマ:建学の精神

2018年9月 聖句によせて 「ザアカイは急いでおりてきて、喜んでイエスを迎えた。」

  • 2018.10.01 Monday
  • 22:29

 ◆聖句によせて   
  「ザアカイは急いでおりてきて、喜んでイエスを迎えた。」
                    ルカによる福音書19章6節
  背が低かったザアカイが、イエスという青年を一目見たいと、木に登って、イエスを盗み見ていたところ、青年イエスは気がつき、見上げてザアカイをご覧になり、今日は、あなたのところに泊まりたいとおっしゃった。
 ザアカイは喜んで、イエスを家に案内してもてなした。
 そういうイエスとの邂逅の出来事ですが、このなんの変哲もないような出会いの出来事から、無限の神の愛を感じとり、多くのキリスト者は神と人を愛するエネルギーをくみ上げてきました。
 ザアカイは、社会的に疎外された立場の人であったと想像されています。
 裕福とまではいかなかったとしても客人を宿泊させるに足る部屋とか食事の用意とかが可能な社会層ではあったようですが、人間関係においては、彼に道を譲ったりする同情をかけてもらえるような人物でもなかったようです。人知れずにイエスを樹上から見るほかないという事情は、彼が置かれていた状況を想像させます。
 そのような彼の自己感情は、自己肯定感が低い多くの人々の自己感情とつながってきます。それは、「自分のようなものは神さまの愛に値しない存在なのだ」という自尊心が傷つけられたこころの状態です。自分が尊い存在なのだという、自己肯定感を充分にもつことができていない状態です。
  被虐待、自主的選択の機会を奪われる、無条件に受容された経験が少ないなどにより、おそらくザアカイは、苛烈な競争、身分差別、身体的な特徴を揶揄されるなどされて心に傷をもっていたのではないかと思うのです。「こんな自分は、神と人から愛されるような存在ではないんだ」  という、傷ついた心です。
 イエスという青年は、このザアカイの傷ついた魂を、敏感に感じとり、声をかけられたに違いありません。神さまは、愛を求めて傷ついた魂を救い、共にとどまられる方だということを、この出来事は指し示しています。だから、この逸話からは、無限の神の愛がくみ取られてきたのです。

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