2018年2月 聖句によせて

  • 2018.01.30 Tuesday
  • 12:08

 人格の成熟ということが、人にはあります。

 

人は単に学習する動物ではなく、悔い改め、やり直し、工夫し、学び、熟考し、踏みだし、前進してゆきます。

 

 この成熟の過程が人生です。

 

 この成熟には、独力でできることだけでなく、どうしても「隣人との交わり」というものが、触媒のように必要です。

 

 成熟は、発酵です。

 

 人格は、よき酵母によって、適切な「環境との交わり」によって熟成するのです。

 

 幼児にとって、大人は成熟した人格者として登場してこそ、適切な人格的な交わり、環境との交わりと言えるでしょう。

 

 わたしたち大人は、教育者として、また養育者として、幼児の周囲に、適切な触媒となるのです。

 

 だから、わたしたちは、「吸収する心」をもつ幼児には、適切な「言語」をもって対峙するという役割を担っています。

 

 この邪悪な世界には、残念ながら、幼児の人格成長にとって、不適切な「言葉」が氾濫している現実があります。

 

 いやおうなしに、こともだちは、不適切な言葉も適切な言葉と共に吸収してしまいます。

 

 それゆえ、幼児には、吸収した言葉を判断し、言葉を自在に、適切に駆使する聡明な良心が育っていなければなりません。

 

 それゆえ、教育の根幹には、「聡明な良心」を養うという重大な目的との往還が必要なのです。

 

 ところで、「聡明な良心」は、生まれながらに人間に備わっている訳ではありません。

 アヴァロンの野生児の事例によってよく知られているように、人間は、その適切な人生の時期、すなわち幼児期に、適切な言語環境(人との交わり)なしには、高度な人格的な内言(こころのなかの言葉)・外言(外に発する言葉)を修得することができません。

 

 もちろん、人間は、神によって創造された「神の似姿」(イマーゴ・デイ)として、被造者のなかで最も秀でた存在として、神の栄光を輝かせる存在ですから、潜勢力として、成長し、成熟し、完成すべき存在として生まれてきます。

 

 しかし、この潜勢力(ポテンシャル)は、適切な環境との刺激の交流によって発現するのです。

 

 神は、この適切な関係性を、「愛」だということを示されました。

 

 愛は、神の存在から発出して、私たちにたえず注がれています。

 

 神は愛なのです。神は愛の発出源であり、愛そのものとして、わたしたち大人を通して子どもたちに、適切な交わりを与え、「聡明な良心」を人格の中心に形成してゆくのです。

 

 

JUGEMテーマ:建学の精神

2018年1月聖句によせて

  • 2017.12.16 Saturday
  • 01:03

  「見よ、わたしはあなたと共にいる。」 創世記28章15節

 

 極限的思考と日常的思考は、共に大切な思考のあり方です。


 極限的思考とは、常に「死」を身近にしながら、「人間としての尊厳をもって生きるということはどういう生き方であるのか」を、自問自答しながら生きてゆくことです。

 

 そういう究極の極限状況としての「死」を人生の日々のなかで、意識してゆく、そのとき、自ずから思考のあり方は、そうでない生き方とは違ったものとなるでしょう。

 

 だから、「メメント・モリ(羅: memento mori)」(汝、死を忘るることなかれ)は、来世を夢想することなどではなく、死に限界づけられた「生」の意味をこそ、むしろ先鋭的に問うという意義があるのです。

 
 日常的思考は、「死」を意識しつつ生の意義や尊厳を吟味しつつ生きるという根源的な態度も、日常的な些細な感情や、思いと、かけ離れているはずもなく、小さな出来事、微細なことばのやりとりや、受けとめという日々のありふれた、「平凡な生活Ordinary life」において、それは現れてくるべきであり、極限的思考は、日常生活のなかで、日常的思考のなかに自然と溶け合いながら現実化してゆくべきものでしょう。

 

 極限的思考は哲学徒や思想家だけのものではなく、誰でもが、生きているこの日常的思考に反映されてゆくべきものでしょう。


 カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した理由は、「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた。」とされています。

 

 『わたしを離さないで』(わたしをはなさないで、原題:Never Let Me Go)は、クローン技術を手にした人類が、ある人の延命のために、「製造された人」を臓器を摘出するという目的のために、一定の期間、「飼育」するという閉鎖的環境のなかで、自らの運命を受け入れながら、「もの」としての生かされる少年少女の感情世界を描き出した作品です。

 

 ここで描かれた世界はフィクションですが、根源的な意味においては、太古の昔から現実そのものでもありました。人をモノ、IT(ソレ)として扱う〈モノノミカタ〉は奴隷制や、現在も存在する人身売買において顕著と言わねばなりません。


 わたしたちが、日常的に思考する、そこに溶け込んでいる極限的な思考を洞察するとき、わたしたち自身、わたしたちの子どもたちに、どのような生き方を、望んでいるでしょうか。「この生き方は果たして正しいのか」どうか、日々の小さな思考の連続のなかに、 〈考える人〉に、こどもたちを育ててゆきたいと、祈るものです。

 

 

12月の聖句によせて 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」    

  • 2017.11.27 Monday
  • 22:50

◆聖句によせて <クリスマス・メッセージ> 

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」 ルカ2章14節

 

  最近、『ALWAYS 三丁目の夕日』を続編と共に、観ました。二度目でした。

 

 一作目のなかで、芥川賞を目指す貧乏文士龍之介おじちゃんが、ひょんな事で同居するようになった10歳の淳之介少年のために、サンタのプレゼントを演出するというシーンがあります。
 

   この淳之介少年は、時代設定として、ちょうど私自身と重なるので、この映画のシーンは、昔の生活感がスウっと伝わってくるのです。わたし自身がサンタのプレゼントの思い出を振り返ってみると、靴下を枕元に置いて眠ったなと思い出せるのは、小学校二年生頃でしたでしょうか。
 

   子ども時代、わたしの家族は布団を出し入れする生活でした。

  部屋の隅の一番端っこに布団を敷いて寝ることを好む子どもでした。

 

  夏の暑い夜には、壁の冷たい感触を味わえるのは一番端っこだったし、カーテンの模様、それはクリスマスツリーのような樹木のデザインでしたが、それを眺めながら物語の空想に耽ることが楽しいこともあったからです。
 

 クリスマス・イブにはサンタクロースが来ることが楽しみで、プレゼントにも胸を膨らませていたものでした。
 

 淳之介少年が10歳と言えば、小学校4年生です。

 そろそろサンタクロースが「お父ちゃん・お母ちゃん」ではないかと感づきはじめるか、もう感づいている年頃です。
 

 映画の中では、一瞬ですが、淳之介はサンタクロースを信じていましたね。

 

 彼は急いで家の外まで飛んでいってあたりを見回しました。

 すると手を振って帰って行くサンタクロースを目撃するのです。(実は龍之介おじちゃんの演出だったんでだすけどね。)

 

 「サンタクロースって嘘だと思っていたけど、本当だったんだ。」
 

  淳之介少年は目を輝かせながら呟き、

 「おじちゃん!サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれたんだよ!本当にサンタクロースっていたんだね。」、
 

 「おお、そうか。何をもって来てくれたのかな?あけて見せてごらん。」
 

 「うわああ、万年筆!どうしてボクが欲しかったものがわかったんだろう?」
 

  確かこんな会話が続きました。
 

  目をキラキラさせて喜ぶ淳之介少年を、微笑みながら見つめるおじちゃん。
 

  つい泣けてしまうシーンでした。
 

  神さまは、愛する人の喜ぶさまを観たいというこころを私たちに創造してくださいました。
 

 神さまが創造してくださったわたしたち自身の、この「喜びの構造」は、偶然の積み重ねで進化してきたものなのでしょうか。
 

 偶然にしては、あまりに手が込んでいますね。
 

 神さまご自身がわたしたち人間が喜ぶさまを観て、実は喜びたいと願っておられるのではないでしょうか。
 

 「喜びの構造」は神さまの願いに由来しているからこそ、わたしたちの愛の基本構造となっている。
 

 わたしたち大人たちは、子どもたちに、この愛の基本構造への揺らぐことのない信頼感を、魂の奥底に育てる責任があると考えています。

 

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